ダイアナ記
戦士の還るところ
THE BOOK OF DIANA

 100年先、この世界が確実に滅亡の瀬戸際に迫る大ダメージを受けると分かっていたら人はいったいどうするだろう。天変地異を神の所業と思い運も命も天に任せていた時代だったら、怯え慌てる人がいるだろうことは想像に難くないし、文明が進んで科学がほとんどのことを解決できるようになってもそれは皆無とはならない。けれどもすべての人がただ手をこまねいて滅びの時を待つとは思えない。英知を合わせ、100年の計を持って大異変に挑もうとするだろう。

 だから荻野目悠樹の「ダイアナ記 戦士の還るところ」(エニックスEXノベルズ、920円)を読み、そこに描かれた1000年に1度、必ず確実に訪れる大災厄まであと10年足らずという時期に至っても、対応が大きくは進んでいないように見えたのにはいささか首をかしげてしまった。ワールドカップだって10年くらいの準備期間をかけるものだし、都市計画なら20年くらいの先は見据えてやるもの。それが自分たちの命にかかわることだったら、100年だって前から準備を始めていたいても不思議はないのだが。

 その惑星、ベゼルイオンに1000年に1度、訪れる大災厄とは常に夜となっている半球を覆った氷が熱によって溶けだし、ベゼルイオン全土に天変地異に匹敵する影響を及ぼすこと。ベゼルイオンはひとつの太陽、マサ・キティ・ベータの周りを回って太陽系を構成しながら、その恒星系ともども別の太陽、マサ・キティ・アルファの周りを大きな楕円軌道で回っていて、1000年に1度、そのマサ・キティ・アルファに大きく接近することになっている。「夏」と呼ばれるその季節が到来するまで10年足らずに迫ったその星で、孤児となって育った少女ダイアナは、エリートを養成するアカデミーに見事入学を果たしてトップクラスの成績をとり続けていた。

 それを妬んだ名門出身の同期生に罠にかけられ除籍のピンチに陥ったものの、ダイアナの才能を買っている女性指導者、ジェニファーによって救われ同期生への報復も果たした上で、学校を出てジェニファー・クローゼンヴァーグによって新設された宇宙軍に入り、一艦隊を率いる提督として戦いの場へと向かう。その戦いとは、近づくマサ・キティ・アルファを回る惑星、アル・ヴェガスに侵攻して50億人もの市民を移民させようとする壮大で、且つ非道なものだった。

 以降、物語は提督として戦い連勝を遂げていたダイアナが、闘いの果てに様々なことに目覚めていく、といった内容で進んでいく。自分の起こした戦闘の結果死んだ人を間近に見て戦争の悲惨さを知り愕然とする、ヒューマニズムに溢れたたっぷりな展開の分かりやすさには、元がエリートとして母なる惑星の未来のためにはどんな犠牲も厭わない、といったエリート軍人にありがちな性格だと思っていたダイアナには似合わず、不思議な思いにかられる。

 若い頃、情動に突き動かされて道を誤った経験から心優しい人なんだと思えないこともないけれど、戦争の渦中に第一線で指揮を執る立場になってまで、そうした優しさが残っているものなのだろうか。もちろんそこまで勘ぐる必要などなく、読者に知ってもらい、感じてもらいテーマとしてダイアナの行動に仮託して描かれたのかもしれないけれど。

 宇宙を舞台にした戦闘シーンの読み応えは十二分。田中芳樹「銀河英雄伝説」のヤン・ウェンリーばりに奇策と知略を駆使して圧倒的な敵軍をけちらす司令官が出てきて楽しませてくれる。滅亡の危機に瀕した生物が女性の指導力、行動力、決断力で生き延びようとする偶然とも必然とも言える現象への言及などもあって考えさせられる。石(ジュエリー)と呼ばれる先史時代からの遺物があって、星をひとつ支えられるだけのエネルギーを生み出すその石があったからこそ星を超えての戦闘が可能になったのだという設定にも興味を惹かれる。

 なればこそ、根本となる部分でのもっていきかたの強引さが気になって仕方がない。なるほど20数年前の時点で大災厄すなわち「夏」の訪れに敢然と立ち向かおうとする人物の言葉が冒頭に掲げられている。そこでそう気が付いていたのなら、するのは住民たちのエクソダスへの準備であって戦争ではない。石の力を使って一時待避のための巨大船団を作るなり、コロニーなり大規模な気候変動にも耐えられる都市づくりをすることであって、他の惑星を占領するための戦争の準備などではない。

 なのにまるで他に選択肢がなかったかのように見えるのは何故なのか。10年足らずの先に危機が迫るまで何もなさなかったのは何故なのか。間際になってみないとことの深刻さに感づかない、夏の間を遊びほうけて冬い飢えて凍え死ぬキリギリスのような人間の本質を示唆しようとしたのだろうか。

 そうかもしれないが、それだけではないだろう。戦争がもたらす悲惨さを描き、翻弄される中から人間性に目覚めていく主人公の姿を描きたかったのだろう。その意図は存分に伝わったし、感銘も受けた。と同時に家庭の幸せの向こう側で国家なり権力による不幸の萌芽が起こっている時に、個人の力が果たしてどこまで発揮できるのかという焦燥感に似た気持ちも抱かされた。ダイアナの進む姿を純粋に楽しむも良し、繰り広げられる戦争の駆け引きを堪能するもよし、そして指摘される人間の弱さ優しさ狡猾さしつこさを感じるもよし。その意味で近年になくつかみ所の多い物語だと言えそうだ。


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