電脳のイヴ


 バーチャル・リアリティを利用した3次元空間という設定、それ自体に新味はもはやない。ヘッド・マウンテッド・ディスプレーで視覚や聴覚を変換したり、体中に電極を這わせて皮膚にまで刺激を与えるインターフェースは、「クラインの壺」や「ヴィーナス・シティ」や「BOOM TOWN」でお馴染みだ。突然出現したり消えてみたり、空を飛んで見たり、男だったら女に、女だった男にボディを変えてみたりといった電脳空間(この言葉ももはや陳腐だ)で可能な事柄の描写も、過去にほとんど出尽くしてしまっていて、新鮮な驚きを感じる描写に出会うことは滅多にない。

 にもかかわらず、SFに、ヤングアダルトに、ミステリーに、純文学にこうした設定が用いられるのは、行き詰まったリアルな空間へのアンチテーゼとして提示された、何でもありの電脳空間への憧憬を、作家も読者も誰でもが等しく抱いているからに他ならない。そして様々の物理的な制約から解き放たれた世界で繰り広げられる出会いに、冒険に、闘いに、愛に憧れ、感動し、そう遠くない将来に経験できるかもしれないと、「あと○○日」といった看板の日付が日一日を減っていくのを見るめるように、指折り数えてその日を待ち続けるのだ。

 技術的にはたぶん現在でも可能な電脳空間の構築だが、現実的には資金面で大きな壁にぶちあたる。開発するにはばく大な費用が必要で、バブルのはじけた日本では流石にそこまでの負担はできないし、現在の技術ではアポロ計画にも匹敵するだけの費用が必要になるかもしれないプロジェクトでは、アメリカでも負担には二の足を踏むだろう。そこで町井登志夫が「電脳のイヴ」(講談社X文庫、600円)で目を付けたのが、チャイニーズ・マネー、つまりは台湾、中国、香港、シンガポールといった中国系華僑のばく大な資金だった。

 アメリカ、日本、ドイツといった国々の技術に中国系華僑の資金が投入されて構築された電脳空間。そこでは業務に絡む取引が行われる一方で、何でもありの特徴を活かした世界規模のネットワーク・ゲームも登場し、世界中の少年少女たちを夢中にさせていた。

 感覚を電脳空間へと導く「ワープ・ギア」を付けて、その日も桜井麗子はRPGゲーム「オリオン・クエスト」に参加していた。少しづつレベルをあげながら、最後にボスキャラを倒してゲームクリアとなる「オリオン・クエスト」だが、麗子はまだレベルが15と、最後まで到達できるだけの資格を持っていない。だが彼女が電脳空間で知り合った中国人で自称”香港人”のエヴェリン・ティウは、得意のプログラミング技術を駆使してわずか1週間でゲームをクリアしてしまい、今はプログラマーの1人として、ゲームの世界に新しいイベントをせっせと作っているはずだった。

 年下だが屈託なく、また天才をひけらかすことなく麗子に接してきたエヴェリンに、麗子は好感を覚えてすぐに友だちになり、会話をしたりお茶(電脳空間でもお茶はできるのだ)したりして楽しい時間を過ごしていた。しかし現実の空間に戻った時、麗子はフィリピン人の母親と、仕事熱心だが決して子煩悩ではない父親の間にあって、世間からは好奇の目でみられたことによる疎外感を、家庭では反抗期が成せる両親への反発を覚えて、いつも苛立ちを隠せずにいた。どこにも居場所がない寂しさと、自分に流れるアジアの血が、だから空間を越えて香港から、中国から、韓国から、台湾から自由にアクセスできる電脳空間に、自らを引き寄せたのかもしれない。

 だが、激しく両親と争った日。寂しさを紛らわすために電脳空間で逢いたかったエヴェリンを探した麗子は、衝撃的なニュースを目にすることになった。「お捜しの方はすでに死亡しています」。どうして死んだのか、事故か、病気か、それとも自殺か。友だちとしてエヴェリンの家族に問い合わせた麗子と、麗子の数少ない友人の1人、ベー・ジョンオクは、エヴェリンの父親から「エヴェリンは自殺したんだ。いや、そうじゃない、殺されたんだ。ワープ・ギアに殺されたんだ!」と聞かされた。

 楽しいはずのゲームの世界に、もしかしたらとてつもない陰謀が隠されているのかもしれない。そしてエヴェリンは陰謀に巻き込まれて殺されてしまったのかもしれない。麗子とベー・ジョンオクの2人は、エヴェリンの死にまつわる謎を解くために電脳空間に立ち上がった。

 謎解きの必須条件として与えられた「オリオン・クエスト」のクリアに、ジョンオクが取った一種の反則技は、いかにも複製可能なデジタル世界に相応しい描写で、技術的には1読では理解できなくても、なんとなくイメージとして伝わって来てニヤリとさせられた。また無制限なようでいて、実はメモリーという限定的な世界の内側に構築された世界であるということを認識させられる描写に度々ぶつかり、それが謎と密接に結びついていく展開に触れるに従って、作者がただ「何でもあり」だから電脳空間を舞台に選んだのではないことが解って来た。

 何より感動的なのが、日比混血、韓国、そして中国人で自称”香港人”という少女を配し、リアルでは1度も面識のない彼女たちを電脳空間で出会わせることで、電脳空間の持つコミュニケーションの可能性を示してくれたことだろう。そして同時に、バーチャルな世界では仲良しだった彼女たちに、いつかはリアルな世界で逢って抱きしめ合いたいと思わせることで、バーチャルな世界では得られることのない血の通ったコミュニケーションの素晴らしさを、改めて提示してくれたことだろう。

 もちろんリアルな世界での邂逅を喜ぶことなどは、リアルな現実にのみ生きる世代のノスタルジー的な感情に過ぎないかもしれない。だがポケベルに、携帯電話に、パソコン通信に、インターネットにバーチャルなコミュニケーションの場が形成され、そこだけを拠り所にして遊ぶバーチャル予備群が生まれ育ち、一大勢力になろうとしている現代において、そうした勢力が主として好むヤング・アダルトの形式で、真摯に友との、そして父母とのコミュニケーションの大切さを唄ったことの意味は大きい。

 重ねて言うが電脳空間という設定そのものに新味はない。だが感動はある。驚きもある。そう遠くない将来、電脳空間が実現し常態化しても、バーチャルな世界でバーチャルな快楽だけを求めるのではなく、リアルな存在と結びついたリアルな感動を覚えることが出来るのだと、その身を張ってエヴェリンが教えてくれたような気がする。合掌、そしてありがとう。


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