ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか

 私はゲームをやらない。ファミリーコンピューターもスーパーファミリーコンピューターもゲームボーイもバーチャルボーイもメガドライブもメガCDもセガサターンもVサターンもHiサターンも持っていない。プレイステーションもネオジオもネオジオCDもCDロムロムもPC−FXも持っていない。3DOリアル? それは知らない。

 ゲームをやらない理由は、ゲームが嫌いだからではない。その証拠に、どんなゲームが受けているか知っている。どんなゲームが発売されるのかもだいたい知っている。どんなゲームマシンがあるかは先ほど記述したとおり。それなのになぜ、ゲームをやらないのか。理由は簡単、下手だからである。例えば大昔、湯河原の温泉で挑んだ「ブロック崩し」には、獲得ポイント7点の辱めを受けた。中学校の頃、全宇宙的に流行った「インベーダーゲーム」は、1面をクリアできたのがわずかに1回、1000点を超えたことわずかに3度という屈辱に甘んじた。以後、ゲームセンターで私はゲーム機にコインを投入した記憶がない。マッキントッシュを買ってから、少しづつゲームらしいものを試してはみた。だが、「AI将棋」はいまだに平手で勝ったことがない。相手を6枚落として、あまつさえこちらが先手でようやく倒せる。ときどき待ったもするが。

 小野不由美さんのゲームレビューを集めた本「ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか」(ソフトバンク、1000円)の冒頭には、「君子、ゲームに近寄らず」という、ありがたいお言葉が出てくる。私は君子なのか。だからゲームをやらないのか。違う。この本は、君子をいえどもゲームにからめ取られ辱めを受け、それらもろもろを乗り越えて大きく成長していく道程を描いた、人生の縮図のような書物なのである。「いつでも抜けられるつもりが、だんだん深みにハマって抜き差しならなくなる。気がついたときにはもう遅い。誰もがそうなのだ。そのくらいゲームというのは危険なのだ」。まさに真理である。冒頭の言葉は、「君子たるものゲームを超えてみやがれってんだい。このすっとこどっこい」という、超越者ならではの大悟を、逆説的に述べた言葉なのである。なんてね。

 全編ゲームレビュー、もしくはゲームに関するエッセイ。一人の作家がこれほどまでにゲームにのめり込んでいる様を、赤裸々に語った書物があっただろうか。おまけに挿画は水玉蛍之丞画伯だ。濃すぎる。あまりにも濃すぎる。読むたびにおたくの血が騒ぎ、SFの魂が揺さぶられ、封じていた筈のゲームのオーラが皮膚からにじみ出て全身を包み込み始める。うおーっ、2万円になるサターンを買いにいくがや、ニンテンドー64はまだきゃー、プレイステーションを寄こしゃー。でも3DOはいらない。

 謎がひとつある。表紙の折り返し部分に、水玉画伯の手になる小野不由美さんの近影が掲載されている。真実を語っているのか否か。私には確かめようがないが、少なくとも誕生日の目出たさに、やはり玩具に魅入られるべく生まれた人なのだという意を固くした。

積ん読パラダイスへ戻る