最後の歌を越えて第15回太宰治賞受賞作
「太宰治賞1999」(筑摩書房刊行)に所収

 はっきりと言おう、人はどこにも行けはしないと。隣りの集落まで山を越え谷を抜けて何昼夜もかけ辿り着いていた大昔から、集落が大きくなりそれが国となって発達し、海を渡って空を越えて地球上をくまなく人が行き来できるようになった今に至るまで、人は、絶対的な意味ではどこにも行ってなどいない。

 それほど遠くない未来に、月を越えて人が惑星に足跡を残すようになるだろう。果ては太陽系銀河系を飛び越えて、遥か宇宙の彼方へと人がその版図を広げるようになるだろう。だがそうなった時でも、人はやはりどこへも行ってなどいない。ただ広がっただけ。無辺の平面上に時の流れとともにただ存在し続けているだけ。上ってもいなければ下がっても潜っても飛んでもいない。人が、同じ人であり続ける以上は。

 だがもしも。人が人ではなくなったとしたら。適切ではないかもしれないが、犬の見ているものを見、聴いている音を聴き、嗅いでいる臭いを嗅ぐようになったとしたら。人はおそらく人とは違った場所へ自らを置くことができるだろう。犬に限らず猫でも鳥でもカビでも木でも、生きているほかの者共のいずれかに知覚をなぞらえるだけで、人は初めてどこか別のところへと行けるのだ。

 と、言われてそれが真実か否かは、人が人としての知覚を持って生まれ死んでいく生き物であるが故に、確認のしようがないのも事実だが、想像をめぐらし経験を積み研究を重ねた挙げ句、人が随意に知覚を変えることができる未来があったとしたら? 例えばそう、冴桐由(さえぎり・ゆう)が第15回太宰治賞受賞作「最後の歌を越えて」(『太宰治賞1999』所収、筑摩書房、1000円)に描く未来のように。

 場所は未来のアフリカ。ジャングルがぐるりと周囲を取りまいた中に、「時の塔」と呼ばれる巨大な塔を中心に四方50キロに及ぶ高層ビル群から成る都市「ティムカット市」があった。そこでは大人たちは決まった名称で括られる様々な仕事に就いており、主人公のキロはその1つ「目撃者」という組織の長として、文字どおり「目撃」する仕事に従事していた。

 何をいったい「目撃」するのか。それは人間にとっては絶対的な世界を、他の存在の知覚を得ることで別の世界として認識し観察することだった。人にとってははなはだ困難なこの仕事を成すために、候補者は早くから人とは異なる世界を知覚する方法を学び鍛えられる。勢い人ならざる者へと変化を遂げる機会も多く、ために候補生の大半が自殺したり狂ったりして脱落していく。

 キロはそうした中でも抽(ぬき)んでて適性があったようで、時折ナイフで手首を切りはするものの、死なずに成長して今は「目撃者」の長となり、部下たちを束ねる立場にあった。そして集団を等しく別の次元へと導くための”竜を見にいこうツアー”の準備に追われていた。そんなキロが、友人の科学者で「神々のサイコロ」と呼ばれるギルドの長を務めるイッシの部屋で、砂漠から来たという女性と子供の2人連れに出会ったところから、「ティムカット市」の置かれた状況は急変し、キロは彼の住む世界を滅ぼしかねないある陰謀へと巻き込まれていく。

 キロとイッシと同じ頃に「時の塔」で育ち、長じて都市を束ねる独裁者となった男、ラーの抱いたある企みと、それを成就する上で鍵となる人物の存在を描きつつ、小説は人が実は何処からより来て、また何処へと向かう存在である可能性を示唆する。決して犬などではないもっと別の何者かへと知覚を発達させることで別の世界へと旅立つであろう人の未来を伺わせる。そして読者に問い掛ける。行くべきか、止まるべきかと。

 それは光瀬龍が描いた小説に見たアトランティスでの実験を想起させる。水樹和佳が漫画に描いた少女の”進化”を思い出させる。梶尾真治の小説では激変に耐え抜く術として知覚の拡大による人類の進化の必要性が解かれる。牧野修は芳香への鋭敏な感覚が人を変える。SFでは繰り返し思索され明示されて来た主題を、冴桐由はここに幾たび目かの出番を得て著している。人はそれほどまでに、どこにも行けない自分たちを自覚し、どこかに行きたがっているということなのだ。

 小説の最後で道は2つに分かれる。行った者と、行けなかった者、或いは行かなかった者の2つの道に。ジャングルの中に聳える孤高の都市が行き詰まった人間世界の暗喩とするならば、滅びへの道を例えゆっくりとでも進んでいる人のとるべき道として、浮かぶのは当然「行く」ことだろう。けれども敢えて選択しとして「行かない」道をも残したこれは、人が人としての誇りと感情を持ち続けることへの著者の、声援と言って言えないだろうか。あるいは小説という形式への賛歌とも。

 SF読みにはいささかも珍しくはない設定だが、朧気な不安が世界の醸成されつつある20世紀末にはやはり、人類そのものの未来を想起させる小説が登場することは避けられない。そうした中においても「最後の歌を越えて」は、密林に浮かぶ都市と、そこに暮らす未来の人々の生活といったビジョンがなかなかにそそる。長編として都市の人々の日常を密にし、独裁者が独裁者たらんとした情念を浮かび上がらせ、都市以外に棲む人の暮らしと都市との関係を描き足すことで、なおいっそうの壮大な世界観を持った小説になりはしないだろうか。”進化”を待ちたい。


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