さよならダイノサウルス

 月旅行とか火星人とかタイムマシンとか、生まれた当時は荒唐無稽な絵空事として描かれていたSFのアイディアも、アポロが月に行くようになり、火星に探査衛星が飛ぶようになって、ただの荒唐無稽から、科学的な事実に基づいたアイディアへと、大きく進歩をとげた。餅つき兎もかぐや姫もいない月には、鉱物資源を求める人々によって街が作られるようになったし、火星もテラ・フォーミングが進んで、地球からの移住者が新しい「火星人」として暮らすようになった。

 おまけにNASAの最新情報によれば、火星には生命体が存在した痕跡があったと言うではないか! オーケー、ぼくたちはひとりぼっちじゃなかった。火星にいたなら金星にいなかったと誰が言える? 別の太陽系にある惑星に生命がいなかったとどうして断言できる? たった1つの小さなヒントが、何十何百、何億何兆にも倍加されて膨らまされ、宇宙を生命体でいっぱいにしてしまうのだ。

 けれどもタイムマシンだけは、いくら技術や知能が進んでも、いまだに不可能なアイディアのままとして、厳として存在し続けている。いや、未来に向かってすすむ「タイムマシン」ならば、当人の時間をその意味どおり「凍結」してしまえば不可能ではない。ウラシマ効果だってある。けれども過去へと向かうタイムマシンだけは不可能だ。SF作家や物理学者がいかに理屈をこねたとしても、人間はたぶん、過去への移動が不可能だということを「本能的」に知ってしまっている。

 だからといって知的探求心の旺盛なSF作家が、「タイムマシン」という魅力的なアイディアをあきらめてしまうことは絶対にない。科学の権化のようなアイザック・アシモフ博士をして、「いくら不可能だとわかっていても、どうしても使いたくなってしまう装置」(「ゴールド−黄金−」304ページ)とまで言わせてしまうのだから。

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 ロバート・J・ソウヤーの「さよならダイノサウルス」(ハヤカワ文庫SF、内田昌之訳、640円)に登場するのは、一風代わった「タイムマシン」だ。その名も「国王陛下のカナダ製タイムマシン、チャールズ・ヘイゼリアス・スターンバーグ号」(略称スターンバーガー)が、どういう仕組みや原理で6470万年前にタイムトラベルするのか、詳しい説明は一切ない。あるのはチン=メイ・ファンという物理学者が2005年に原理を発見し、2013年に実際に動作するタイムマシンを作り上げてしまったという「歴史的事実」と、タイムマシンを動作させる「ファン効果」という言葉くらい。

 そして恐ろしいことに、この「スターンバーガー」は、ヘリコプターによって上空1キロメートルの高さまで吊り上げられ、そこから落とされることによって動作するというのだ。1キロメートルの高さから、物体が地表に落下するまでにかかる時間は何秒だろうか。そんなわずかな時間の間に、「スターンバーガー」は6470万年の時を越え、次の瞬間にはカナダはアルバータ州の恐竜がうようよと動き回る土地に、ドスンと激突して大量の砂を巻き上げている。

 ロイヤル・オンタリオ博物館の古脊椎動物学部門キュレーターのブランドン・サッカレー(通称ブランディ)と、ロイヤル・ティレル古生物博物館のキュレーターのマイルズ・ジョーダン教授(通称クリックス)が、「スターンバーガー」に乗って過去へと向かったのは、彼らの職業からも、向かった時代からも当然のように恐竜絶滅の謎を解き明かすため。かたや彗星激突が滅亡の原因とする「ゴッツン主義者」のクリックスと、火山の噴火が原因とする「ドッカン主義者」のブランディは、私生活でもブランディの妻、テスをめぐって複雑な間柄にある。

 そんな2人も過去に送り込まれれば、一介の科学者に戻って熱を帯びたように働くかといえば、相変わらずテスをとったのとらないのと、心理戦や肉弾戦の応酬があるのだが、それでも仕事はききんと果たそうと、恐竜たちの間におりたって愕然たる事実を目の当たりにする。

 恐竜がしゃべるのだ。もちろん恐竜の脳が言葉を話したり思考したりするのに適していなかったことは、生物学的に立証されている。しかし打ち倒した恐竜の頭からドロリと垂れ下がってきた青いゼリー状の物体が、いったんブランディの頭に入ったあとで別の恐竜へと戻り、その恐竜に「待ってよう」と言わせたことで、ブランディたちはその「青いゼリー」が、恐竜たちを操って言葉を発せさせていることに気が付いた。

 だったら「青いゼリー」は何なんだ? そこから言葉をしゃべる恐竜たちと、未来から来たブラッディたちとのコミュニケーションが始まるのだが、「青いゼリー」の正体を含め、次第に明らかになって来た事実に、ブラッディは恐れおののき、ついにはある行動をとらせてしまう。それこそが・・・・っと、これは秘密。しかし哀しい結末にブランディともども涙することは間違いない。

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 実はこの「さよならダイノサウルス」には、本線ともいえるブランディとクリックスのタイムトラベル記とは別に、もう1つのブランディとクリックスとテス、そして本線ではタイムマシン之発明者としてノーベル賞まで受賞したチン=メイ・ファン博士のもう1つの姿が描かれている。

 タイムマシンなど存在しないもう1つの世界で、ブランディの過去への旅行記を読んだブラッディとファン博士は、宇宙と生命と時間の秘密にたどり着く。冒頭と結末に描かれている、癌に苦しむブランディの父親のエピソードが、果たしてどちらの世界(タイムマシンありなのか、タイムマシンなしなのか)に属する話なのかを考えたとき、原因と結果の倒錯した関係に慄然とし、「行動しないというのは、それ自体がひとつの決断」という、繰り返し登場する言葉の重さに否応なく気づかされる。

 その瞬間だ。荒唐無稽だったアドベンチャーSFが、人間という「決断する」ことのできる存在がもたらす幸福と災厄を強く考えさせる、深遠なる哲学を持った小説へと転化する。

 とはいえ、ソウヤーの語り口は徹頭徹尾ユーモアに満ちて、底流に響く重い旋律を感じさせないほどに、軽やかにストーリーを転がす。イギリス人やジャマイカ人を誹謗するジョークの応酬しかり、かわいい寄り目のプラナリアに「カレン・ブラック」と名付け、別のプラナリアに「バーブラ・ストライザンド」と名付けたエピソードしかり。軽妙な語り口で、いつの間にか読者を深淵の世界へと引きずり込んでしまったソウヤーの、次の作品を期待しても決して間違いはないはずだ。


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