クラウゼウィッチーズ

 もしもカール・フォン・クラウゼヴィッツの「戦争論」を戦争部の女子高生が読んだら。

 巌百合彦の「クラウゼウィッチーズ」(講談社、1600円)という小説を要約すれば、多分そういうことになるのだけれど、そもそも戦争部とはいったい何かが引っかかる。暗殺部なら深見真が「僕の学校の暗殺部」(ファミ通文庫)に書いているし、雨乞い部なら青柳碧人の「雨乞い部っ!」(講談社ラノベ文庫)に登場する。どちらのその名の通りに暗殺をしたり、雨乞いをしたりする部活だ。

 いや待て、暗殺なんて非合法なことをする部がどうして存在するのか、雨乞い部とは呪術か何かをする部なのか、といった疑問がさらに浮かんで、あり得ないだろうと多くの人を思わせる。だからここでは、そういう部活が存在する世界があって、暗殺をしたり、雨乞いをしたりしているとだけ言い抜けておこう。

 戦争部もこれら、あり得ないのにあり得る部活と同様に、戦争をする部活ということになる。やっぱりあり得ない。しかしある。そして戦争をしている。

 何も異世界からの怪物とかを相手に、学生たちが時間を繰り返しながら戦う類のものではない。相手は別の自治体。そこにある高校の戦争部。国力が衰退した日本では、権限が委譲された自治体の間でもめ事が相次ぎ、半ば内戦のような状況になっていた。もっとも自治体を挙げて大っぴらに戦争をする訳にはいかない。だから、高校に設置が義務づけられた戦争部が担当することになった。

 どうしてまた高校が、という疑問に答えるならば、高校の部活同士の争いなら、半ば笑い話で済むだろうちう思惑があったからだったけど、いざ始まってみればどこもかしこも高校の戦争部を拠点に武器を揃え、兵器を揃え兵員を揃えて本格的な戦闘を行うようになってしまった。そんな日本の東京都内にある散花学院高校にも、やはり戦争部が設けられていて、部長を含めて3人の部員が所属していた。

 1人は部長の時雨黎で、長い黒髪をした美しい少女。そして(戦術家。もう1人は舞風芙美という名の薄紅茶色をした金髪の少女で、謀略などを担当している。そんな2人のいる戦争部に新しく加わったのが涼波唯という少女で、書記として戦争部に関わる物語を書きつづっている。

 他の2人に比べるといたって普通なのは、戦争部を清掃部として間違えて入ってしまったから。そのまま離れられず、今は作戦参謀や会計の仕事もしながらボンクラばかりの戦争部を支えている。ぼんくらなのか他の2人は。

 ぼんくらなのかもしれないのは、散花高校戦争部として出撃する作戦で、いつも多くの戦死者をいつも出してしまうから。もとより弱小で武器や兵器を持っておらず、兵員も運動部から男子部員を借りて来て充てているくらいで、専門に兵員を揃え潤沢な資金で兵器や武器を揃えるエリート高校にはかなわない。

 それでも優秀な戦術家がいれば、勝てないまでも負けない戦いは出来そうなところを、この時雨黎という部長は、6倍もの戦力差を「精神力で逆転可能な兵数だ。突撃は兵の義務で、戦術家の夢だ」と言ってのけるくらいのぼんくらぶり。「余計なことは考えず黙って中央突破が戦術家の華だ」とも言ってのける思考から下される用兵で、動員された戦争に臨んでは失敗ばかりしていて、涼波唯はその始末書書きに追われている。

 愛宕山あたりで行われた戦闘でも、徴用された運動部の男子部員たちを出撃させては取り囲まれて殲滅され、自分たちだけはどうにか逃げ出すぼんくらぶり。その後も飛行機が欲しいと突然言いだし、売ってもらえそうだからと出むいた先で、何者かの襲撃を受けて撃墜されて飛行機は手に入らず、借金だけが残った。父島付近で行われた海上での訓練に自衛隊とともに参加した時も、同じような謎の敵による襲撃を受けては画期的な策で敵艦を沈めはしたものの、見方艦にも甚大な損害を出したりした。

 本当に天才戦術家なのか。ただの自称ではないのか。全兵器使用自由(オールウェポンズフリー)と作戦教導書に書かれてあるのを見ると、鼻血を吹き出して喜ぶのは自由に戦術を組めるからだと戦術家ならではの思考ぶりを認めるに吝かではないけれど、散華高校にある兵器は軽機関銃が2個半小隊分と銃機関銃が3丁。それで勝てるはずがないのを喜ぶのはやはり、天才を過ぎたぼんくらだとした思えない。

 もっとも、飛行機を落とされ船を沈められたり沈めたりした裏側には、見方であるはずの舞風芙美が裏切っているからでは、といった見解が、散華高校の生徒会相談役にして稀代の錬金術師と称され、どこからかばく大な資金を引っ張ってくる腕に長けた佐藤莉奈という黎の同級生から出されていたりする。

 飛行機を買い付けに行った飛行場で襲ってきた敵も、父島のそばで襲ってきた艦艇の敵も、戦争部として正式に宣戦が行われた相手ではなく、その正体は謎のまま。戦闘が行われたことすら監督官庁には認めてもらえないという不思議さもあって、めぐらされるこれらの陰謀が何を目的にしたもので、そして散花高校の戦争部をどこへ向かわせるのか、深く興味をそそられる。

 ところで、クラウゼヴィッツの「戦争論」はどうなったかというと、それぞれの戦闘で「戦争論」に書かれた言葉が引かれ、戦闘に適用されようとするものの、画期的に戦況を変えるには至らず、若い男子生徒たちを挽肉に変え、海の藻屑と変えてしまう。それでも失敗は成功の素。示される言葉の有り難みと、実際との差異から何が足りず、何が違い何を加えれることで、「戦争論」から学ぼうとする姿勢は見せている。姿勢だけは。そこから「戦争論」の現代における価値を、問い直すことはできる、かもしれない。

 何より国力の低下が著しい日本の近未来像を示唆するポリティカルフィクションとして、また実在する武器を使った戦闘シーンのリアルさで引きつるミリタリーアクションとして、さらに3人の女子高生たちが繰り広げるエロティックな姿や会話で楽しませる萌えストーリーとして、幾つもの読みどころを持った作品。それが「クラウゼウィッチーズ」と言えるだろう。

 パンツは履いているかもしれない。そしてそれは見えないようになっているかもしれない。だからちってつまらなくはないし、むしろパンツすらずり降ろした背後から、差し込み貫く描写すら平気で描く。そんな描写を味わいつつ、美少女たちが「戦争論」を片手に高慢に指揮するその凛々しさを見せ、そのたびに少年たちが挽肉になったり海の藻屑と消えたりする様を、これからも読ませて欲しいもの。待とう、続きを。


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