ヴォルフガング・クライプ展
展覧会名:ヴォルフガング・クライプ展
会場:東京国立近代美術館
日時:2003年3月2日
入場料:1000円



 「花粉症の方はご覚悟下さい」と、表に書かれているとかいないとかで評判の「ヴォルフガング・ライプ展」。噂では花粉飛び散る中を流れる涙に鼻水にむせびながら見なくちゃいけないって話(一部誇張)だったけど、展示してある作品は床面に1メートル四方でタンポポの花粉が敷き詰められていたり、瓶の中にマツとハシバミとタンポポの花粉がため込まれたのが並べられていたりする程度。舞い上がって初春の季節にセンシティブな方々の鼻腔に涙腺を痛めつけてるような風はない。

 そもそもがスギ花粉症の人がタンポポにも反応するってことはないから、行くと大変なことになるってのがそもそも冗談なんだけど、センシティブな人ってそれはもう「花粉」って単語を目にしたり耳にしただけで、目鼻がカユくなってくるものらしいから、そこに積み重なったものが例えタンポポやマツの花粉でも、見ればやっぱり何かを感じたりするのかもしれない。見ようと寄って花粉と知ってくしゃみして、花粉を舞い上げなおいっそうのくしゃみに悩まされる、そんな展覧会があったらあるインタラクティブアートかも。

 さて作品はと言えば、タンポポの花粉が敷きつめられている他には、大理石の表面にミルクを張って張力で持たせてある作品とか、8枚の真鍮製の円錐を楯に並べた回りに米を撒いたり、蜜蝋を固めて段々の大きなブロックにして置いたりした極めてシンプルなものが中心で、あまりにシンプルなんで花粉とか、米とかいった聞けば生々しいはずの物体もそこでは乾いて静かな存在になってしまっている。

 例えばヤン・ファーブルが見せる、玉虫の標本を幾重にも貼り付けて作った服のよな、臭いまで漂うパワフルな生々しさを覚えず気持ち拍子抜けな印象を受ける。、紛うこと”死体”でもある玉虫の標本が強烈で、命の源ともいえる花粉に種子(米)が、かくも無機的に見えてしまうギャップを覚えないでもない。

 ただ立ち止まって考えてみれば、たとえ表面的には無機的でも、その実種子や花粉は生命活動の中間的な段階に位置する存在。種子に至っては腐らない限りは永久に近い年月を、生き抜き未来へと生命を運ぶために身をすくませて、時間を固形化させている故の沈黙だとも言える。

 つまりはそうした花粉なり、種子への意識を持った上で見なくちゃいけないってことで、単なるフォルムとかあるいは色彩とかいった”美”の意識だけではくくれない、コンセプトそのものであり行為そのものを見て感じるべき作品なんだろう。

 一方ではそうした御託を考えるのも面倒な人間にとって、内在するパワーとやらを受け取る以前に見てくれの平凡さに気を緩めてしまいそうな作品であることも一面には事実でもある。そのあたり、東南アジア系のアーティストが、米とか瓢箪とか扱う手さばきの馴れてはいなくても、大胆でパワフルでストレートな様に比べ、西洋ならではのストイシズムを感じないでもない。

 とはいえそれでも金属や石や顔料に比べて種子の持つ柔らかさや親しみやすさ、花粉の持つ軽やかさが醸し出すイメージを広げてそこに、命の力を持ったりしやすい作品であることは確か。ましてや冬が終わって春になり、芽が吹き花が咲き花粉乱れ飛ぶ季節が訪れた今だけに、見て得られる解放感は格別だ。


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