キャラクターズ

 佐藤友哉桜庭一樹大塚英志浅田彰阿部和重谷川流筒井康隆大森望太田克史舞城王太郎山形浩生笠井潔笙野頼子鈴木謙介前島賢森川嘉一郎新井素子堀田純司鈴木健矢野優唐沢俊一北田暁大香山リカ巽孝之柄谷行人……といった固有名詞に全般的に覚えがあったら、読んでそれなりに含み笑いを得られるかもしれない。

 哲学者でオタク文化にも詳しい東浩紀と、ライトノベル作品「よくわかる現代魔法」のシリーズで知られる桜坂洋が、100年の歴史を誇る文芸誌の「新潮」2007年10月号に掲載した作品「キャラクターズ」は、のっけから「ぼく、すなわち東浩紀は、そのとき、みずからの傲慢さを思い知ることになった」という、尾籠さを持った私小説的とも身辺雑記的ともとれそうな書き出しで幕を開ける。

 そして、佐藤友哉らしき作家が文学賞の三島賞をを獲得し、桜庭一樹も推理作家協会賞というミステリーの伝統ある賞を取ったという連絡を受けて東浩紀は拳を握って苛立ちを募らせ、桜坂羊は断筆すら決意しかけるくらいの衝撃を受ける。なぜ衝撃を受けたのかはそれぞれによって異なるが、ともあれショックから2人はライトノベル的な人気を文学が引き入れつつ文学界的な趣味に陥れ、籠絡しようとしている風潮に憤ってあれやこれやと画策する。

 おそらくは交代で執筆しているだろう本文は、桜坂洋の手による小説的なパートがあってそこで文学に対する批評めいた言説を盛り込みつつドラマが繰り広げられたあと、哲学者であり批評家である東浩紀による批評をベースに小説的な想像力やビジョンが加えられたパートが重ねられつつ外側から、内側から文学を、文壇を、論壇を批判し揶揄し解説しつつ進んでいく。

 そのように見えて実はそれぞれが完全に合作しているケース、あるいは書いているパートをそうみせかけて逆に書いていたりするケースといった騙しが隠されているかもしれないから安易なパート分けからの言説に対する論評は避けた方が良いのかもしれない。それはすなわち書かれていることへの論評の難しさを持っていて、どう扱ったら良いのか惑わされる。

 むしろストレートにドラマとして読み面白い、面白くないを判断するべきなのだろうけれど、野次馬のようで覗き魔のような興味から手に取り読む人間は得てして文学界なり文壇の事情を耳にしていて、ゴシップ的な言説の奔流からニュートラルな立場へと身を置き換えることは難しい。批評家に批評を許さない批評、とでも言おうか。あるいは批評をするなら相当な覚悟を求められる文学。いずれにしてもやっかいな代物だ。

 さらにクライマックスに用意されているエキサイティングなスペクタクルがなおいっそう判断を迷わせる。朝日新聞社大爆破。左翼的言説の巣窟であったり文化的言説の中核であったりするその場所を破壊するという、乱暴きわまりない展開を容易に指示すれば右だと誹られ安易に批判しても媚びていると見られかねない。己が立ち位置をどこに示すべきなのか、そもそもどうして示さなくてはならないのかを考えさせられるという意味で、知性を標榜する世界に投げ込まれた爆弾のような小説だとも言える。

 なるほどそこで唐沢俊一が焼け死に、逃げ場所を求めて窓を伝おうとした北田暁大がすがりついて来た香山リカを振り落とそうと暴れ、香山に噛みつかれたまま2人抱き合って窓から墜落して死亡する展開は、過去に東浩紀が繰り広げてきた言葉や行動を知っている人間には何とも不思議な感情を喚起させる。未だ知らないひろゆきを探して96年式のゴルフカブリオレを走らせるラストも実にイマドキだ。

 だがしかし……。批評のキャラクター小説化とは言うものの、キャラとは何かを考えさせられるというよりは、やはり文壇バトルロイヤル的な興味の方が先に立ってしまう。小谷野敦の「なんとなく、リベラル」とい作品は、田中康夫の出世作でスノビッシュな学生の日常を描いた「なんとなく、クリスタル」を、大学教員の世界を舞台にして描こうとした内容で、そこでも研究者世界の内幕ばらしのようなことがされていた。

 決して楽しめる作品ではなかったが、それでも笑いはあった「なんとなく、リベラル」に比べて「キャラクターズ」は、展開も敵のあげつらい方も実に悪趣味。あるいはそんな悪趣味っぷりを大外から笑う、メタ的な立ち位置を取って楽しむべき作品なのかもしれないけれど、それを実践してみたところで何か新しい世界が見えて来る感じはあまりしない。

 文芸誌という世間一般には超高級で超難関と思われているカテゴリーの雑誌に、こういういった下世話な作品が、それも哲学者にライトノベル作家という文学の世界から見ればまるで門外漢の2人が書いた作品が、1番の扱いで表紙で紹介され、そして本誌にも掲載されたということを取って、大きな事件であると騒ぎ立て、その事件性をひとつの批評として捉え愉快がることを、読み手は尊ぶべきなのかもしれない。

 しかしやはり、そうしたところで所詮は文壇という世界での小さな嵐でしかない。台周囲にある広大無比な普通の世界で、この「新潮」2007年10月号の件が事件として捉えられ、大きく取り上げられるということなんてあり得ない。染み出て大きく世界に衝撃を与えるなんてことも考えられない。考えられるとしたら、この事件を事件と取り上げ広め煽るメディアの存在があってのことなんだろうけれど、果たしてそこまでの仕込みをしてあるのか。なければ単なる自爆テロ。2カ月先では誰も覚えちゃいないだろう。

 露悪的な趣味を楽しむという方法もないでもない。「すべての元凶は桜坂なのだ。やつの、いい子ちゃんぶったところが問題だ。おれが阿部和重の悪口を言うと、『いい加減仲直りしなよ』と賢しげに諭したりしやがるやす。そもそも桜坂洋は、ライトノベルの新人賞で審査員だった阿部和重に落とされている。あとで阿部本人に確認したところ、桜坂の作品を落とすことに決めたのは新井素子らしいが、桜坂は『阿部が強硬に主張したと編集に聞いた』と言っている。そんな男が、おれに向かってなぜ仲直りしろなどと言えるのだ。アホか」。

 そんな言葉をノンフィクションと理解すれば、何だそうだったんだと可笑しがれる。フィクションであっても、桜坂洋がいかにも言いそうな内容と口調なだけに、パロディとして面白い。

 「現におれは、【新潮】の読者はただのひとりとして誰だかわからないであろうまったくどうでもいい存在の前島賢という男に一番起こっている。いいひとぶった桜坂に『どうでもいいんだったら許してあげなよ』と言われるたびにおれの中の怒りは膨れあがる。『ぼくと東さんだっていつケンカ別れするかわからないんだから、あんまり怒らないでひとと仲直りする癖をつけようよ』とか言ってる場合じゃない。いいか桜坂、これだ。この瞬間の怒りがすなわち文学が求めるパワーだ。おまえに欠けているものだ。ノートにメモっとけ」。

 ああ愉快。知らない人でも何かそこにあるのでは、と興味を喚起させられる。知ってる人なら何をわざわざといった感じにつっこめる。が、しかしだからそれがどうしたという地平を超えて、影響を広められるかというと分からない。大勢の人がこれは何事が起こっているのだと訝り、「新潮」を買い作品を読んでから起こすリアクションを観察しつつ、起こるのは更なる罵倒かそれとも激しい賞賛なのか、果たしてどちらが贈られるのかを観察することが必要なようだ。


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