Bye−bye Earth
ばいばい、アース

 100時間、200時間と時間をかけても未だエンディングの見えないゲームが世間を騒がせている。マップを頼りに街や森や砂漠を彷徨い、何十人、何百人もの人たちと言葉を交わして少しづつ世界が見えて来たと思ったら、用意された舞台のほんのプロローグに過ぎなかったという事態に、人間の叡智が生みだしテクノロジーの進歩が可能にした仮想現実の可能性を垣間見てしばしたじろぐ。

 小さなディスクの中にデジタル信号と化して収められた世界の広さ、深さ、大きさたるや人間が1生の間に行くだろう現実での世界すら凌駕していると言って、もはや言い過ぎではないだろう。プレーヤーが経験するその世界での出来事の多彩さ、出会う人物の多様さもまた、現実世界に迫るバリエーションを持っていると言える。

 だからと言ってゲームの世界が現実を超えたものだと言って果たして言えるものなのか、という疑問がやはり残る。何故ならいかに舞台が広大でも、また出会う人たちが多彩でも、それらはすべてが創造者である人間によって生みだされプログラムによって現出するものでしかない。定められたエンディングに向かってひたすらに試練をくぐり抜け、イベントをこなし、出会い別れ旅立ちたどり着く、そのクリエーターによって与えられた目的に向かって仕組まれた道を進んでいるに過ぎない。

 メディアの容量の大きさが選択肢を増したことは認めよう。けれどもそれは無数に近くあっても無限ではない。人の意志と感情が次の瞬間すら予測できないようにしているリアルな生とは違うと見るのが一般的な感情だ。

 けれども、とここで考える。リアルな生は本当に無限の可能性に満ちているのか。意志と感情は本当に人間から放たれているものなのか。例えばここに”運命”という言葉を代入し、あるいは”神”という存在を明示した時、無限の可能性は未来には存在せず、常に1つの川へと向かって支流が流れ込むように、定められた運命によって人間もまた動かされているに過ぎないのではないのか、という懐疑が首を持ち上げる。

 どうだろう。クリエーターがディスクの中に仕込んだ”機械仕掛けの神”によって導かれるゲーム世界と、造物主がいつか世界が滅びる瞬間までをも見越して書き記したコードをなぞるように進んでいく現実世界との、どこい違いがあるというのか。プログラムだから仕方がないと言うのならば、運命だから仕方がないと何故言えない? 意志などは存在しない。御心のままに。そう諦観し流されて生きて何が悪い?

 悪い、とは言えない。そう信じて生きている人の多さは否定しない。けれども現実に存在するゲーム世界のクリエーターと決定的に違うのは、神の存在を理念的ではなく物理的に確認などしようがないということ。運命などは代数でしかない。神などは可能性でしかない。野放図で奔放な人間が他律を求めて生みだした産物でしかないとするならば、運命と神の存在を否定することも不可能ではない。

 残るのは人間の意志のみ。その意志が無限だった可能性から選んだ一瞬が現在としたら、次に訪れる未来もまた無限に広がっているはず。無数の選択肢からエンディングを目指すゲームの生の面白さではなく、無限の可能性を選び取って進んでいく現実の生の素晴らしさ。冲方丁の「ばいばい、アース」(角川書店、上下各2900円)は、運命に流されず理(ことわり)に縛られない、現実の生を自ら選び取って生きようとしている人間の強さ描こうとしているように見える。

 ラブラック=ベル、という名の少女は剣の使い手で頼まれて怪物退治なども引き受けては日々の糧を得ている。特徴がないのが特徴で、それというのもベルが暮らす世界では、誰もが長い耳、突き出た目、巨大な鼻、毛皮、尻尾といった特徴を持って生まれ育っていて、にも関わらず1人ベルだけが体毛もなく長い耳も突き出た目も巨大な鼻もない、普通一般の人にとっては”のっぺらぼう”としか形容のしようがない姿をしていた。

 だがある日、彼女は剣の師匠から自分のことを忘れるようにと術をかけられ、修行の身を放たれて旅へと向かうよう求められる。”理(ことわり)の少女”と呼ばれる彼女が求められているのは、自分は何物なのかという存在の証明であり、神によって定められた運命の頸城からのエクソダス。ためにベルは「旅の者」(ノマド)となって外の世界へと向かうべく、王の定める試練をこなすべく都市へと出る。

 「唸る剣」(ルンディング)と呼ばれる剣を頼りにベルは王を支える剣士と戦いこれを倒す。だがノマドとなるにはさらに幾つもの試練をこなす必要があった。剣の魔力にとりつかれて国王を裏切った剣士を倒し、「正義」(トップドッグ)と「悪」(アンダードッグ)とに別れて戦う人々の狭間に蠢く、闇からの声に誘われた剣士を相手に幾度も壮絶な戦いをベルは演じる。王位の簒奪、闇の台頭、謎めいた存在による介入等々。誰も逆らえない大いなる意志に従って、ベルの前に数々の試練がベルの立ちはだかる。

 読みながら思うのは、ベルが試練をこなす世界が暗喩ではなく電脳空間に構築された仮想現実で、仕組まれたプログラムにのっとって試練というなのイベントをこなしているのではないか、という疑念だ。ディスクの中に収められたプログラムと言い換えても良い。

 植物に近いニュアンスで剣士は剣を育て鍛えていくという設定、同様に風媒花、水媒花と記して鳥に魚を意味させる言葉遣いは、練り込まれ作り込まれた人工的な世界を見るよう。そんな世界で定められたように裏切り、定められたように魔へと墜ちるベルの周囲の人々もまた、主役を立てて物語を進ませようとする”クリエーター”の思惑を感じさせる。

 あるいは「都市」(パーク)という言葉、「導き手」(ガイダンス)というが指し示しているように、一種の「テーマパーク」を舞台にした疑似イベントではないのかという想像だ。異世界ファンタジーの衣を借りた、滅びかけた人類の再起を描いたSFと作品を評することも不可能ではない。文中にはそんな可能性を仄めかす言葉が出てくる。

 だが、問題の本質は、異世界だろうと電脳空間だろうとテーマパークだろうと関係なく、読む人に語りかけて来る。運命とは。意志とは。定められた試練=プログラムの存在が醸し出す不自由さが、かえってベルのひたむきな自由への、自ら運命を切り開くことへの渇望をクローズアップさせ、読む人の羨望を煽る。もはや作家が作品として描いた物語の枠組みすら超えて広がろうとしている、ベルの果てしない可能性への憧憬が、読む人の心を振るわせる。

 2647枚は確かに長い。だが読み始めさえすれば、練り込まれた世界設定の巧みさに驚き、言葉遊びに近い用語遣いの妙に魅了され、ベルが出会い繰り広げる人々の多彩さに心惹かれ、戦いの迫力に胸躍らせながら、起伏に富んだ物語を時間を忘れて楽しめる。単純にほぐせば言われるところの「ビルドゥングス・ロマン」であり、その役目を存分に果たして鮮やかなエンディングへと導いてくれる。

 と同時に、人類の命運を描く壮大な叙事詩のプロローグに過ぎないのではないかという想像も浮かんで楽しくなる。だとしたら人類の命運を紡ぐ物語はいったいどれだけの長さになるのか、考えるだけで壮絶な様が目に浮かぶ。もしもそれだけのグランドデザインを頭に描いて「ばいばい、アース」を書いたとしたら恐ろしいばかりの想像力だと作者には感嘆する。だがまずは本書。そこに紡がれた圧倒的な存在感を持つ世界を目の当たりにして、創造者としての可能性に驚嘆しよう。


積ん読パラダイスへ戻る