ブラジルの赤
ROUGE BRESIL

 むかしからの伝統や、習慣や、教義を頑なに守り続けることと、新しい発見を受け入れ、新しい価値観を取り入れて変わっていくことの、どちらが人間にとってより素晴らしく、よりふさわしい生き方なのだろうか。言うまでもない、それは新しさを受け入れ変わることだと、現代の文明下に生きる人の多くが答えるだろう。

 新しい価値観は、閉塞した状況を打破して次のステップへと人が足を踏み出す指針となる。けれども信じていたはずの新しい価値観は、さらに新しい価値観が生まれた瞬間に古い価値観として退けられる運命を免れない。変化を称揚すればするほど、人は己の気持ちを裏切る結果を招く。古い価値観にしがみついて、新しい価値観を否定し続けることとそれは異なっているようで、似通った部分を持つ。

 人は古さにこだわるべきなのか、それとも新しさにおもねるべきなのか。そのどちらでもない、古さを認めることに寛容であり、かつ新しさを受け入れることにも貪欲であれ、そうすることによってまったく次元の異なる新しい地平が拓けるのだということを、ゴンクール賞を受賞したジャン=クリストフ・リュファンの「ブラジルの赤」(野口雄司訳、早川書房、3000円)は告げようとしている。

 時は16世紀中庸。新大陸がコロンブスによって”発見”されてしばらく後の、スペイン、ポルトガル、フランスといったヨーロッパにある各国がこぞって海外に勢力の拡大を行い始めた時代、フランスから3隻の船が南米大陸はブラジルへと向かって出航した。歴戦の勇者で騎士のヴィルガニョンに率いられた船団には、フランスの版図にブラジルを組み入れるべく集められた騎士、聖職者、職人といった人材が乗り込んでおり、そんな中に、子供が異国の言葉でも短期間で覚えるから、とい理由で通訳として駆り集められた子供たちがいた。

 ジュストとコロンブの兄妹も、通訳として集められた子供たちの中の2人だった。半ば孤児として育てられた2人には秘密があって、それはイタリア遠征中に行方不明となったクラモルガンという貴族の子供というものだった。訳あって父親の許から話された2人は、けれども出生の秘密とそして親戚の陰謀によって父の貴族から継ぐべき領地を横取りされ、父親を探すという名目を与えられて遠くブラジル遠征の列に加えられてしまった。

 到着したブラジルでジュストは、貴族の父を持った尊厳を胸に、騎士として立派にあろうと奮闘する。兄妹の父クラモルガンを尊敬していたヴィルガニョンに引き立てられ、奴隷にも等しかった扱いから抜け出し、ブラジルにうち立てられた王国の維持と発展に努め、また知識や武術をヴィルガニョンから学ぶことによって騎士の道を歩もうとする。

 兄とは対照的に、コロンブはジャングルの奥へと目を向け、そこに暮らすインディアンたちの中に入って生活を共にし、時には食人も辞さないインディアンたちの価値観を理解しようとする。最愛だったはずの兄が、宗教に敬虔な別の女性の見方をしたことへの感情のもつもあって、砦を離れジャングルに住むインディアンたちの許に身を寄せる。

 コロンブが出奔した後の砦では、同道ちしてた旧教徒と新教徒との対立が日に日に激しさを増していった。ジャングルに潜む敵の攻撃、疫病の蔓延、ポルトガルの陰謀といったさまざまな悪条件が重なり合って、砦は崩壊への途を歩み始める。

 文明に、騎士道に、教義にこだわろうとする人々の見せる醜い諍いに巻き込まれながら、それでも砦=西洋に踏みとどまろうとする少年と、自然に惹かれ自由になろうと、ジャングルに入り、インディアンたちと暮らすようになった少女。別々の生き方を選んだ2人の運命を描く物語は、世界を覆う硬直した価値観にくさびを打ち込み、理解と共存による新しい可能性を指し示す。

 兄と妹の対立は、だからといって騎士道や宗教といったものに縛られた西洋の価値観に、ブラジルのインディアンたちの奔放さ、力強さが勝るということを現してはいない。インディアンたちはインディアンたちの古くから頑なに守ってきた価値観があって、コロンブに理解はできても、すべてに賛同はできない。

 そんなコロンブの葛藤に支えとなるのが、彼女たちよりはるか以前にブラジルにたどり着き、インディアンたちと暮らし始めたペイ=ローの存在だ。インディアンたちの中にあって、西洋の価値観を心の根底に抱き続けるコロンブに、彼はインディアンたちの習慣への理解を促す。一方でインディアンたちの習慣にも、その意義が揺るがない範囲で西洋的な価値観も共存できる手法を編み出し与える。どちらか一方が一方の価値観を押しつけるのではない、理解と共存の可能性がそこからは浮かび上がる。

 砦の主だったヴィルガニョンも、西洋の価値観の範囲内においては決して頑なな人間ではなかった。かつて共に学んだカルヴァンの教えに理解を示し、新教徒を砦に受け入れ理解しようと務めた。しかし旧教徒に並ぶ頑なさで向かって来る新教徒に、理解と共存を説くほどの寛容さを持ち合わせていなかったヴィルガニョンは、やがて激しく新教徒と対立するようになる。

 聡明なヴィルガニョンですら埋めきれなかった旧教徒と新教徒の価値観の対立は、ブラジルはもとよりヨーロッパでも広がって、各地で悲惨な事態を引き起こす。そこに根ざした対立は、今なお一部の地域でくすぶり続けている。

 また広く西洋の価値観は、武器の助けも借りて中米を蹂躙し、南米を一色に染め上げていく。アフリカを陥れ、アジアを塗り込め、世界に一大帝国をうち立てる。21世紀になった現在もなお中近東で、極東で、南米で、アフリカで一方的な価値観による蹂躙は続いている。その結果だけ見れば、コロンブの願った理解と共存はまるで力を持たなかったことになる。

  だがそうなのだろうか。それで良いのだろうか。それしか道がないのだろうか。ジュストとコロンブの物語から500年が過ぎた今なお結論が出ないほど、この問題は難しい。もはや絶対的に解決のできない問題なのかもしれない。けれども絶望はしたくない。細くても道はあり遠くても答えはあるのだと信じたい。なぜなら人間は考えられるから。理解と共存に活路を見いだそうとしたジュストとコロンブの物語を生み出せる力を持っているのだから。足りなかった500年がさらに500年、積み重なった後に広がる新しい地平に向かって、兄と妹の意志を伝える力になりたい。


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