坊ちゃん忍者幕末見聞録
どこがいったい「愛と希望の歴史ファンタジー」なんだろう?
というのが読み終えて真っ先に浮かんだ感想だけど、帯の惹句が正確なこともあれば針小棒大なこともあれば暗喩だったりほのめかしだったりするのは、本の世界で良くあることだし、そもそもが「ファンタジー」というジャンル自体、とてつもなく広い範囲をカバーできる便利で深淵なものだ。あり得ないことから見える、あり得ることのつまらなさと素晴らしさを分からせてくれるという意味で、奥泉光の「坊ちゃん忍者幕末見聞録」(中央公論新社、1800円)は立派に「愛と希望の歴史ファンタジー」なのかもしれない。やや強引。
タイトルから伺えるように、この「坊ちゃん忍者幕末見聞録」がオマージュを捧げているのは夏目漱石の「坊ちゃん」。親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている、訳ではないけれど、元気で純真で前向きで、夢と希望で心をいっぱいに膨らませた主人公の青年が、新しい場所へ行って新しい出来事を経験し、新しい人たちに出会って新しい自分を発見する物語は、「坊ちゃん」と同様、読む人に若いからこそ得られるものがあるんだということを教えてくれる。
東北は出羽の国、庄内平野のほぼ真ん中にある鶴ケ岡城から北へ七里の片田舎で、養子に入って祖父となった大叔父から忍術を教わった主人公の松吉は、もとより医学を修めたかったところに、同郷で大庄屋の息子の寅太郎が遊学に江戸へと出るのに是非付き添ってくれと頼まれたこともあって、千葉秀作道場に入るとうい寅太郎といっしょに江戸へと向かう。
ところが根っからの我侭坊主の寅太郎、折からの尊皇攘夷の風に当てられ、京へと上った勤王の志士、清河八郎の挙兵に参画するべく自分も京へと上ると言い出してもう大変。金を出してもらっている以上、松吉ひとり江戸へ行くとはいえず、各蕃から志士が集まり、一方で新撰組ら佐幕派の活躍も始まった、動乱のただ中にある京の都へと連れだって向かうことになる。
途中知り合った浪人や志士の志望者らとあれやこれやしながらの上洛道中膝栗毛。どうにか到着した京で出会った沖田なる青年に尋ねたところ、寅太郎が配下に加えて欲しいを願っていた清河八郎はもう京にはおらず、それでも折角だからと新撰組をたずね、勤王の志士をたずね祇園に芸妓にはまりといった具合に、あちらこちらをフラフラし始めた寅太郎を横目に、松吉は吉田蓮牛という医者の書生になって修業生活に入る。
こうして始まった松山ならぬ京の都での「坊ちゃん」生活。新撰組に佐幕派に開国派、土佐に長州に薩摩といった幕末ストーリーにつきものの人物やら団体やらが跳梁する中、どちらかといえば開明的な思想を持つ医師の弟子ということと、寅太郎の軽い口から大袈裟に伝わってしまった忍者修業をしたという経歴もあって、勤王佐幕派開国派らの争いに巻き込まれる形となって、襲われたり裏切られたりと大変な目にあう。
とはいえ松吉、忍術修業をしたとは言っても、「忍法帖」のように蝦蟇に化ける訳でもなければ水に潜り火を渡り空を飛びドロンと消えるなんてことも出来る訳でもなく、忍び込んだり隠れたりといったノウハウを持つくらい。そんな松吉が剣術に優れた男たち、頭脳明晰な男たち、猪突猛進な男たちの間でとりたてて大活躍できるはずもなく、司馬遼太郎の小説にあるような、幕末の動乱に重大な役割を果たした男の一代記なんて物語にはまったくならず、動乱のエネルギーうずまく幕末の京に、田舎から放り込まれた青年のドタバタ見聞記といった物語が最後まで続く。
「愛と希望の歴史ファンタジー」という惹句に惹かれ、圧倒的な冒険話を期待していた身には「だから、何?」、といった拍子抜けした感慨が浮かんで仕方なかったというのが正直な感想。なるほど松吉の頭に突如として「スクランブル交差点」とか「クリスチャン・ディオール」とか「京都タワー」とかいった、現代の日本のビジョンが時折浮かぶあたりを評して「ファンタジー」と言っているのかもしれない。けれども、それが幕末に渦巻いていた肌にピリピリと来る緊張感をもって、ゆるみきった現代を風刺しているようにも、現代の物質的な豊かさと精神的な適当さが事をうまく運ぶ状況で、雁字搦めになっていた過去を揶揄しているようにも見えて来ないところが悩ましい。
時空の混乱によって異化効果を出すというより、ちょっとした変奏めいた効果を醸し出す程度の使われ方のようにとられてしまいそうでもったいない。もっとも、同じ過去と現代のごった煮によるマジカルな雰囲気づくりという点で、高橋源一郎の「日本文学盛衰史」があまりに飛びすぎていたこともあったせいで、奥泉光の技がいささか大人しく見えてしまったのかもしれない。交錯する幕末と現代のビジョンはなるほど、それぞれの良さと愚かさ、真っ当さと不思議さを感じさせてくれる。
キャラクターの造形力はさすがなもので、学力でも武力でも圧倒的な力を持つでなく、家には金はなく生きて行くことさえ大変な身でありながらも、くじけず悩まず誰を恨む訳でもなく、前向きに生きている松吉のオーバーでない熱さにまず惹かれる。あるいは連れの寅太郎の、その瞬間に見方だったかと思うと次の瞬間は敵につくという、卑怯千万なところが存分にありながらもどこか憎めない態度も、松吉と対称的で面白い。圧倒的なヒーローではない平凡な人間の両極が2人に出ていて、同じ人間としての反感と共感の渦に浸れる。
純朴で兄思いのところがある主人公の妹のお糸が見せる健気さは、「坊ちゃん」に登場して主人公を心配しているお清の健気さにも共通するところがあって、笑えて泣ける。出羽庄内へと戻る道中、夢にあらわれたお糸が笑いながら語りかけて来た、「土産なぞいらね。松あんちゃが帰っただけでいい」という言葉には心底ほっとさせられる。期待され過ぎて期待に応えようとして応えられず、才能のなさに気付いて自滅しはいあがれない自意識過剰な人間の多い現代、お糸の言葉が放つ癒しの力はとてつもなく大きい。
ただやはり、すんなりと読み終えて「だから、何?」で留まってしまいそうになるのも事実。読んで得られる青年の熱、青春の夢、まったりとした気分を箸休めににして、次は再び「グランド・ミステリー」なり「鳥類学者のファンタジア」といった、圧倒的なエンターテインメントにして圧倒的な文学を、奥泉光には見せてもらいたい。
積ん読パラダイスへ戻る