ブラッドハーレーの馬車

 06年11月に日本で公開された映画「エコール」。棺桶に入って運ばれてきた、まだ幼く胸もふくらんでいない少女が目覚めると、そこでは6歳から12歳の少女が7人で作った組が7つ、塀に囲まれた森の中にある屋敷に離ればなれになって生活しながら、勉学にダンスに勤しんでいた。

 10歳になった少女には最初の選別が訪れて、同年の中で校長らしき人物に見初められた1人だけが、塀を越えて森の外へと連れ出される。残った少女たちは劇場に立つようになって、いずこからともなく集まって来る紳士たち、淑女たちにダンスを披露するようになる。

 沙村広明の「ブラッドハーレーの馬車」(太田出版、667円)は、見初められるなり、歳が満ちてから持ちの外へと向かった少女たちの、その後のひとつの可能性を描いたような漫画の連作集だ。薄い衣装で踊る少女達をねめつけるような目線で見る男たちの姿から想像されたものとは、いささか違って平穏過ぎるくらいに平穏だった「エコール」の少女たちのその後。これが「ブラッドハーレーの馬車」では、想像を上回って苛烈で、陰惨で、残酷で壮絶なものとして描かれている。

 孤児院に暮らす孤児たちには夢が与えられていて、年に1度の選別に選ばれれば、ブラッドハーレーという公爵が運営するブラッドハーレー聖公女歌劇団に入って、華麗な舞台に立てるのだと信じられていた。

 じっさいに選ばれた少女は、送り届けられたドレスに美しいドレスに身を包み、差し向けられた立派な馬車に乗って、ある少女は自慢げに、またある少女は孤児院に残る友人たちを振り返りながら孤児院を後にする。そしてたどり着いた場所は、屋敷というにはあまりに殺伐として、高い塀が張り巡らされたとある施設。そこで少女たちは、想像を絶する苛烈な運命と向き合うことになる。

 あまりに悲惨きわまりない運命から気をそらせようと、空想の友人を頭に描いてベッドに横たわりながら会話する少女が現れる。シーツを首に巻き付け自殺しようとする少女も出てくる。まず浮かぶ憐憫。そして、何故にこういう事態へと至ったのか、人間として誰も止めようとしなかったのかと憤りも浮かぶ。

 しかし一方で、永遠の不自由をかこつ身となった場合に、こういう事態があれば気持ちも和らげられ、高まっていた内圧が鎮められるのかもしれないという思いも浮かんで、人間の生物としての本能の激しさと、愚かさとに苛まれる。

 何故に孤児院に暮らす少女なのか、そして劇団に入っても不思議はないと誰にも思われるくらいの容姿を持った少女なのか、ほかにも女たちはいて、例えば困窮にあえぐ大人の女性を送り込む、あるいは犯罪を犯した女囚に罰を与えるといった方法も、それが決して好ましいとは言えないながらも、選択肢としてはあったのではないか。欲望の爆発を防ぎ、憤りをそらす役割が果たせればそれで良いのだから。

 そう考えると、見目麗しくそして年端もいかない少女が選ばれるという設定自体は、見てそのビジュアル、そのシチュエーションから歓喜される痛みを伴う官能に配慮してのことだと分かる。半歩身を引いて見えて来る、目的が最優先された作り物的な世界観が、いつか現実に起こり得るかもしれない可能性を感じ涙を流すといった感情には、気持ちを至らせない。

 これなら高橋慶太郎が「ヨルムンガンド 第3巻」(小学館)で描いた、紛争地帯の基地に拾われ、ジャガイモがいっぱいのスープが食べられ喜んでいた少女が、たずねてきた武器商人に連れ出され、地雷地帯を歩かされそして爆発したクラスター地雷の破片避けにされ、絶命するシチュエーションの方が、地域的には遠くても現実性では地続きにある分、激しい哀しみを呼び起こす。

 もっとも、漫画的な想像力すら上回って異常で残酷なことが起こるのが、この現実の世界というもの。どこかで外れてしまった抑制が、「ブラッドハーレーの馬車」のような事態を起こらせないと誰が断言できるだろう。

 むしろ、ここにこうして提示された漫画的な想像力が、人間に眠る邪悪な感情を呼び起こしてしまわないとも限らない。行き過ぎを批判し踏み外した者に待つ哀れな末路が示唆されていても、喫緊の目的のために弱みには目をつぶり、今が大事と突っ走ることは、人間の歴史を見ればままある。

 ならば何をここから学び取るべきなのか。別れた娘との残酷な再開が起こり得る可能性を想起し踏みとどまる。自由へと導いてくれるはずの待ち人を雪の降る中で永遠に待つ姿の哀れさに心を律する。学べることは少なくない。

 けれどもしかし、欲望は時として理性に勝る。恐怖への悲観は平穏への楽観をやすやすと塗りつぶす。だからやはりここから学び取るべきなのだ。人間が人間としていられる最後の地点というののを。踏み越えればもうそこに世界はないのだと信じて。


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