Black Magic
ブラック・マジック

 エンターテインメントなら通俗的と断じられてしまうものが、純文学としては画期的だといわれてしまうことがもし、あったとしたらそれはやっぱり違う。エンターテインメントと純文学にはそれぞれに効用があって、同じ土俵で比べるべきものではないと言う意見は理解している。問題は、エンターテインメントでしかないもの、プロレスで例えるならメーンイベント一歩手前のエンターテインメントが、純文学の土俵で三役を張っている場合についてのことだ。

 文藝春秋の「文學界」といったら、相撲部屋でいうなら超名門で、そこに連載された小説ならば少なくとも純文学で三役以上、ことによったら横綱であっても不思議はない。となれば「文學界」に連載され、単行本化された大岡玲の「ブラック・マジック」(文藝春秋、2000円)は、純文学でも横綱大関関脇に位置する存在だということになる。

 けれども、読み始めてまず思ったのは、これは決定的にエンターテインメントなのではないか、ということだ。「猟奇殺人・遺伝子操作・新興宗教 殺戮の中でしか私は欲情できなかった 『幸福』を求めてもがきつづける怪物的人間たちを描く傑作長編小説」だけあって、面白いしすらすら読めていろいろ教わることもある。ただ、医療サスペンスなりサイコホラーなり経済小説といった、数あるエンターテインメント作品から受ける知識の啓蒙、プラス圧倒的なカタルシスのようなものに、いささか欠けている印象があって戸惑う。

 外資系医療ベンチャーの日本支社長の原田は、過去に親の入信していた宗教団体で暮らした経験があったが、とうの昔に脱会して米国にいる親戚の元へと引き取られ、そこで長じて企業人となり、日本支社のトップへと収まって帰国した。部下には代理店業から転職した広報担当の女性がいて、天才的な能力を持ちサンゴの遺伝子を使って人間の癌細胞を退治する研究をしている森川という科学者がいて、親会社の期待も上がっていたが、何故か突然突然会社を辞めて、科学者も広報担当の女性も引き抜いて新会社を作ってしまう。

 出資したのは原田が大昔にかかわっていた宗教団体。本来だったら忌み嫌ってしかるべき集団と敢えて組んだのはなぜなのか。また、その宗教団体が過去に因縁のある原田の新会社の技術を狙うのはどうしてなのか。取材に訪れたことがきっかけとなって原田と懇意になり、新会社にアドバイザーとして迎えられ取り込まれてしまうノンフィクションライターの貴島も、最初は激しい戸惑いを抱くが、人をあらがえなくするような不思議な魅力を発する原田の言動にからめ取られ、その会社の社外役員にまでなってしまう。

 ちょうどその頃、女性ばかりを狙って遅い切り刻んだ挙げ句に放置した事件が明るみに出て、犯人らしき人物がつづっているらしいホームページの存在も示唆される。犯人らしき人物も展開の中で浮かび上がり、その理由らしきものも示される。それは天童荒太が「永遠の仔」で描いた”過去の傷”めいたもので、人間の心に穿たれた穴蔵の深さ、暗さに読む人は戦慄させられる。

 加えて同時期に発売された小説ならば楡周平さんの「マリア・プロジェクト」なり、関口哲平の「ハート・ビート」といった作品で描かれた、欲望の赴くまま人間の尊厳や命の大切さなど無視して暴走してしまう、科学および科学者につきまとう問題への提言もあって、読むほどにさまざまなことを考えさせられる。

 ただ、巻き起こる事件はきわめて単純で展開も単調で、どんでん返しにアクションの末のカタルシスを求めるようには作られてない。というよりむしろエンディングはあっさりし過ぎで、読む目にあまく映る。宗教団体をめぐる権力闘争も単純だし、人心を魅了する能力を持った原田の能力の源も、能力がどうやって育まれたのかも、あまり描かれておらず物足りない。その能力が過去においても、また現在においても相当に深い意味を持っているだけに、どうやったからそういった人物が生まれたのか、といった部分への考察も含めて説明が欲しかった。それこそ「永遠の仔」のように、子供時代の原田の宗教団体での生活を克明に描写する、といった感じで。

 更に加えて、マッドサイエンティスト然とした部分のある森川の過去も克明に描写し、それらさまざまな人生が交錯した果てに現在へと至る展開を書いて、宗教団体の俗物な代表者の過去現在も書き、原田に取り込まれた貴島の取り込まれてしかるべきだった生い立ちや生活も描いて欲しい気がする。それだけのボリュームが単行本の1巻ではとても収まり切らないだろうことは承知。けれどもこまでやって楽しめる物語だといえるだけに、もったいない気がして仕方がない。

 これはエンターテインメントではなく純文学であるのだから、エッセンス部分だけを抽出してまとめた物語であっても構わないとする意見があったとしたら、釈然としないものを感じてしまう。あるいはそうした意識を持って適当な部分でまとめあげたのたとしたら、反発すら感じてしまう。「マリア・プロジェクト」も「ハート・ビート」も、決して空前絶後のエンターテインメント性を備えた大傑作、という訳ではなかったが、それでも読んでいる間はいろいろ勉強できたし、何より楽しめた。

 力量を問うなら、描かれる人間の底知れぬ深みにしても、徹底した俗物ぶりにしても、キャラクター造型に関してはなかなかの冴えを感じさせる。常に傍観者でしかありえない、決して当事者になれないことへの葛藤から、実業の世界に誘われるとはまりこんでしまい、挙げ句に崩壊していくノンフィクションライターの貴島の独白は、同じ悩みを持つ、情報を動かして糧を得てはいるものの決して当事者にはなれないジレンマに悩みもだえるライター、ジャーナリストの耳に強く響くだろう。

 ただしやはり主役級の2人、原田と科学者で原田とは因縁浅からぬ関係にある森川という、天才派だならもマッドサイエンティスティックな側面も持つ科学者の関係を、もっともっと描き込んでくれていた方が、読んでもっと身に迫るものがあったよなう気もする。純文学というカテゴリー、純文学誌というフィールドが、そうした派手な、けれども読んでより楽しめる要素をスポイルしてしまったのだとしたら、重ねていうがやはりもったいないことだ。

 あるいは伝統の相撲部屋で育ち横綱にまでなったものの、格式張った世界にどこかに物足りなさを感じて精一杯にエンターテインメントを見せようとして、壁にぶつかりあがいているのかもしれない。だったら出ればいい。出てプロレスなり、格闘技なりの世界で頂点を極めればいい。力道山が、天龍源一郎が、安田忠夫が北尾が輪島が花田が相撲から外の世界へと出て活躍したように。していないのもいるけれど。

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