ブラック・ジャック創作 〜手塚治虫の仕事場から〜

 ベレー帽を被って、いつもニコニコと笑顔をふりまき、日本中の人から愛され“漫画の神様”として慕われた手塚治虫。医学部出身で、博士号も持っているという知的でモダンなイメージとも相まって、いわゆる泥くささとは対極にいる、クールでダンディな漫画家だったと思っている人も少なくない。

 もちろん、手塚治虫の評伝なりを読んだ人なら、彼が漫画に関してはとてつもなく深い思い入れと、高いプライドを持っていてたことを知っている。劇画ブームの中で存在が忘れ去られようとしていた時には、劇画へと画風を歩み寄らせて、人気回復に務めようとしたほど。そこには、ノンシャランとしたクールさは微塵もない。

 昭和40年代に入って、劇画に熱血にギャグといった漫画が人気となって、手塚治虫の居場所がだんだんと見えなくなっていった時の、彼の焦りはいかばかりのものがあっただろう。アニメーションへと参入したものの、借金は嵩んで台所事情は火の車。それでも筆を折らず、描き続けて来たからこそ、「ブラック・ジャック」という希代の傑作が生まれ、「三つ目がとおる」や「陽だまりの樹」「ブッダ」「アドルフに告ぐ」といった、今も読まれる作品が誕生した。

 読者にとっては、ファンにとっては憧れの“漫画の神様”だった手塚治虫が、自分の作品を描くことにかけては、強欲なまでの“漫画の鬼神”だった。そう語られる手塚治虫の姿を、漫画によって目の当たりにできるのが、宮崎克原作、吉本浩二漫画による「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」(秋田書店、648円)だ。

 編集者やアシスタントらに取材し、手塚治虫がどれくらい、漫画に対して鬼神だったかをつづった評伝漫画。写真ではいつも笑顔で、ベレー帽を被ったモダンな知識人に見えた手塚治虫は、中年体型をした壮年として描かれている絵柄ともあいまって、文章で読む評伝とはまた違った印象を与えてくれる。

 つづられるエピソードは、どれも凄まじいの一言。いったんはゴーサインを出しながら、どこか気に入らない部分があったのか、「ブラック・ジャック」の評判を周囲に聞いていった手塚治虫。早く仕上げて欲しい編集者は面白かったと言い、アシスタントも空気を読んで面白かったと口を揃えたが、中に1人、いまひとつだったと率直な感想をいったところ、手塚治虫は前とはまるで違ったストーリーを作り、8時間で描き直すと宣言する。

 編集者が、壁村耐三という手塚治虫を復活させ、「週刊少年チャンピオン」を当時のトップ漫画誌に躍進させた、知る人と知る名物編集長に電話すると、待っていたのは激しい罵声。かといって手塚治虫を翻意などさせられず、編集者は苛立ちの中で壁を殴って穴を開けた。

 もっとも、壁村編集長は部下を怒鳴りながらも手塚治虫が8時間で上げると言ったなら、絶対に上がると言って印刷所を止めて待ち続けた。強い信頼。そんな期待にこたえて手塚治虫も、外向けのベレー帽など被らず、裸足になりランニングシャツ1枚になって、エアコンが止まった部屋で原稿用紙に顔を近付け、刻みつけるように原稿を描いていったという。

 まさに鬼神。仕事を仕上げないままアメリカへと出かけてしまい、日本に戻って描く時間がなくなった時は、電話で日本にいるアシスタントに指示を出し、小回りをさせ背景を描かせてから、そこに自分の描いたキャラクターを載せていった。その時の支持の仕方がこれまた凄まじい。

 ファックスなど使えず、インターネットなどもちろんない時代に手塚治虫は、どうやって日本にいるアシスタントたちに完璧なまでの下準備をさせたのか。そこに、描いた漫画のすべてを自らの血肉としている手塚治虫という漫画家の、恐ろしいまでの漫画に対する思いの深さが現れている。読むほどに空恐ろしくなるエピソードだ。

 アメリカから日本へと戻る飛行機の中でも、手にインク壺を持って描いていたという永井豪の証言も。あの手塚治虫が隣で漫画を描いている席に乗り合わせた乗客が、何を思ったかを知りたくなってくる。当時は手塚治虫と書かれた名刺と紹介があれば、飛行機会社が便を融通してくれたというほど、国民的なスターだった手塚治虫。その姿に接して喜んだか、立ち上る鬼神のオーラにたじろいだか。大いに気になる。

 永井豪に限らず、「かぼちゃワイン」の三浦みつるや「テニスボーイ」の小谷憲一、「コブラ」の寺沢武一といった、後に大成する漫画家たちがアシスタントとしてつきあった手塚治虫の印象を語っていて、そこからも時流に阿らない、独自の世界観を持っていた漫画かだったことが伺える。

 タイヤをどうして黒で描くのか。そう咎められて小谷憲一が過去の作品を見直したら確かに白く描かれていた。当たり前を当たり前にしない気風。寺沢武一が他にはない宇宙船を描いたら、目新しさに喜んだというエピソードも、安住せず革新し続けようとした手塚治虫のポリシーを感じさせる。“漫画の神様”と呼ばれ続けるために全神経を研ぎ澄まし、全精力を注ぎ込み、全ての時間を費やした。早い死去が惜しまれるが、その密度、その速度を思うと仕方がないという気も一方に浮かぶ。

 新人の編集者でも、共に素晴らしい作品を作り上げていくパートナーと認め、アイデアの評判をたずねて愛想を言おうものなら真剣じゃないと怒ったエピソード。しばらくぶりにアニメ作りへと戻り、「バンダーブック」を苦難の果てに作り上げてから、完成したものに対してさえリテイクを求め、完璧を期そうとしたエピソード。その真剣さ。その真っ直ぐさに驚きつつ、強く惹かれる。

 漫画に限らず、すべてのクリエイティブに必須の、そしてあるいは現在薄れつつあるかもしれない心構えが、手塚治虫という存在を通して語られる「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」。ここから、次へとつながる道が生まれ、人が育っていけばさらに日本の漫画は、クリエイティブは豊かで深く、激しいものになるだろう。


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