美の奇人たち 〜森之宮芸大前アパートの攻防〜

 デビュー作が絵画も含めた一切の芸術活動が禁止された世界で、名画の“復活”にかけるアートテロリストたちの活躍を描いた「ヴァンダル画廊街の奇跡」(電撃文庫)だから、芸術に関心や造詣のある作家といった印象もあった美奈川護。けれどもその後は、元キャリア女性が、手で運ぶ宅配便の仕事に就いて、そこで不思議な力を発揮する「特急便ガール!」や、地方のオーケストラに入った青年が、才能を持ちながらも訳あって引っ込みオーケストラを指揮している女性と出会う「ドラフィル! 竜ケ坂商店街オーケストラの英雄」といったお仕事系の小説を書いて来た。

 だから、美大生が登場して、芸術とは何かがテーマになっているこの小説は、デビュー作の原点に戻って書いたものになるのかしれない。「美の奇人たち 〜森之宮芸大前アパートの攻防〜」(メディアワークス文庫、650円)。読んでまず立ちのぼってくるのが、美大生とは実に独特な人たちで、芸術とは人倫や良識といったものとぶつかる存在だといった印象だ。

 父親がハイパーリアリズム(超写実主義)の画家で、写真が発達した時代ではそっくりに描く絵など売れなくて、貧乏をした挙げ句に父親と別れて出ていった母親は現代アーティストとして人気を得たもものの今は死去し、そちらについていった兄が画商となって母親の絵をさばいて稼いでいる。そんな境遇にあるヒロインの黒峰朱里。貧乏画家の父親が苦手で、高校を出てすぐ家を出て仕事をしながら食いつないでいたけれど、なかなか居場所を定められないでいたある時。母方の祖父が連絡をして来て、経営しているアパートをひとつあげると言ってきた。

 といっても、築50年は経っていそうなボロアパートで、そこには近隣にある森之宮藝大の学生だか元学生が住み着いては、家賃をなかなか払ってくれない状況が続いていた。祖父は朱里がもしもそうした住人たちを退去させられたら、リノベーションをしてピカピカにしてあげると言ってきた。渡りに船と朱里は乗り込んでいく。

 そして始まる幾つもある部屋の住人たちとの立ち退きをめぐる攻防は、それぞれに連作の短編として描かれている。保健所で殺処分されそうになっていた犬を撮って評判になった写真家の女性が、ピューリッツァー賞を獲得したケビン・カーターによる報道写真「ハゲワシと少女」の例もあって、自分が悲劇をシャッターチャンスととらえているかもと思い撮れなくなって引きこもっていたのを引っ張り出す。父も兄弟姉妹も音大に行ってそれなりな成果を上げながらも、自身は芸大の中の音楽家で一段ランク下がりのようで、なおかつ折角得られた役を降りてしまうといったこともあってやっぱり引きこもっているのをどうにか立ち直らせようとする。

 借金まみれの陶芸家は、自身が破滅的というよりは伴侶との死別が尾を引いている感じで、そこを解きほぐして解決に到る。いずれも芸術家と呼ばれる人たちの作品への、技能への真摯な態度が見えて、だからこそ迷い悩む姿に触れられて感心させられる。そうした活動を、朱里は住人の1人で演劇青年らしい高羽登志也と共闘しつつ進めていこうとするものの、その高羽と朱里の父親との関わりめいたものが浮かんで、朱里は逃げていた父親や自分の過去と否応なしに向き合わされる。

 朱里は本当は絵が好きだった。描いてもいて腕前も確かでコンクールでそれなりな評価も受けていた。けれども父親に反発して美大には進まず、絵筆を取ろうとはしなかった。芸術家の横暴さに辟易としていた。けれどもそんな朱里の前に、貧乏だったけれども父親の絵を認める人がいたらしいことが示され、いろいろと逡巡するようになる。芸術とは他人を差し置いてでも追究すべきものなのか。それだからこそ芸術は大勢の人に感銘を与えられるのか。問いかけられる。

 飄々としていながらも朱里に書く仕事をしていた高羽の明らかになった“正体”がなかなかに強烈で、その出自その生い立ちにおいて師にあたる人物が繰り出した、横暴ともいえる態度には戦慄が走る。だからこそ生まれる芸術があるのだとしても、それほどまでに芸術は人倫も良識も超えて存在すべきものなのか。それだからこそ芸術は人心を惑わし虜にして存在し得るのか。考えさせられる。

 ひととおりの追い出し活動を終え、朱里の任務は完了したように思えたものの、気の良い祖父の差配によってすぐまた増えていく住人を相手に、朱里が奮闘して高羽がサポートしていく続きがありそう。これまでに出ていない芸術家の種類というと、映画監督とか脚本家とか彫刻家とかヴァイオリニストとかアニメーション作家とかになるのか。それぞれに関連した悩みなり蘊蓄なりが語られながら、物語として紡がれていく時を楽しみにして待とう。


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