麦酒の家の冒険

 一人暮らしを始めたら、是非ともやってみたいことがいくつかあった。その中の一つが、冷蔵庫の中を麦酒でいっぱいにすること。本当だったら、喫茶店にある四面をガラスで覆われた冷蔵庫を買って、中を小瓶に入った麦酒でいっぱいに埋め尽くしたかったんだけど、六畳一間のワンルームでは、そんなものを置くスペースはないから、いつかの夢へと先送りした。

 かわって部屋に入ってきたのが、腰の高さほどまでしかない、独り者用の二ドア冷凍冷蔵庫。いきなり麦酒でいっぱいにできるだけの、財力も甲斐性もなかったし、すぐに酔っぱらうという現実的な問題も抱えていたため、越してきてからずっと、冷蔵庫の中は空っぽの状態が続いてた。

 最近になってようやく、麦酒を一缶、二缶飲んでもピクリとも酔わずに済むようになった。財政面でも「麦酒券」なるものが手元に集まるようになった。これを持って酒屋に行けば、冷蔵庫の中を麦酒でいっぱいにできるだけのファンダメンタルズは整った。けれどもまだ実行はしていない。せいぜいが350ミリリットルのレギュラー缶を一ダースほど買い込んで、三段に別れた冷蔵庫の中の一段を、麦酒でいっぱいにする程度に止まっている。

 だってさあ。麦酒でいっぱいの冷蔵庫を、ただ自分の満足のためだけにやるのって、ちょっと寂しいじゃない。誰か他人に見てもらってこそ、麦酒でいっぱいの冷蔵庫を作る意味があるんじゃない。だからまだ、見てくれる人、驚いてくれる人、賞賛してくれる良い人ができるまでは、麦酒でいっぱいの冷蔵庫は作らない。当分先まで作れそうもないってのが、ちょっぴり哀しいけどね。

 それにしても、ぎっしり詰めたところでせいぜいが30本程度の小さな冷蔵庫しか持たない生活からながめると、西澤保彦さんの「麦酒の家の冒険」(講談社ノベルズ、780円)に登場する麦酒でいっぱいの冷蔵庫って、とてつもなく魅力的なものに見える。なぜってこの冷蔵庫には、96本の麦酒、それも500ミリリットルのロング缶の麦酒が入っていて、おまけに冷凍庫には、13個のビアジョッキがカチンカチンに冷やされて入っている。一日三本飲んだとしても、32日間も飲み続けることができる。うらやましいことこの上ない。

 そんなうらやましい状態に、タックこと匠千暁クンと、ボアン先輩こと辺見祐輔という西澤ミステリーお馴染みの二人に、超絶美人のタカチこと高瀬千帆、ウサコこと羽迫由起子の女性二人が加わった四人が遭遇する。場所はR高原。友人を失った(「彼女が死んだ夜」参照ね)ボアン先輩が「牛を見にいきたい」と言い出したところから、不思議な山での一夜を四人は過ごすことになる。

 帰り道、山を下りていく道の途中で「土砂崩れ・通行止め」の看板を見た四人は、いったん引き返して麓へと抜ける迂回路へと入り込むが、途中で車がガス欠になって、迂回路の中程で立ち往生してしまう。山の上にある宿舎まで戻る時間もなく、四人は迂回路の入り口付近にあった無人の山荘へと向かい、一夜の仮の宿を取る。そこで見つけたのが、一階の一部屋に置かれたメークされたベッドが一台、そして二階のクローゼットの中に隠された、麦酒でいっぱいの冷蔵庫だった。

 歩き疲れで喉がカラカラの四人組。そんな彼ら彼女らが、冷たく冷えた麦酒が冷蔵庫にぎっしりと詰まっている光景を見たらどうするだろう? 驚く前にまず「プシュッ」、だね。やっぱり。

 置いてあった麦酒の銘柄が「エビスビール」だってところも、飲み助の魂を刺激したみたい。冷蔵庫内を照らすランプに反射して、金色に輝く缶の列。そして缶の脇に書かれた「原材料:麦芽、ホップ」の記述。米もなければスターチもない、シンプルで純粋な「エビスビール」の原材料に関する記述を見るたびに、これが、これこそが、これだけが麦酒なんだと思えてくる。(実はサントリーの「モルツ」もやっぱり麦芽とホップしか使っていないんだけど)

 けれども議論好きの四人。麦酒をいい加減片づけたところで、どうしてこんな不思議なレイアウトの山荘が存在するのかについて、夜を徹して侃々諤々の議論を始める。曰く誘拐事件の舞台である、あるいは子供のしつけのためである、さらにはドッキリカメラのロケ現場である等など。けれどもわざわざクローゼットの奥に冷蔵庫を置く意味が見いだせない。何もない部屋にベッドだけを置いておく意味が分からない。

 夜が明け、大学へ返った四人はさらに麦酒を飲みながら、続けて様々な議論をする。山荘でタカチが指摘したように、もう一件、同じ「麦酒の家」があったことから、子供のしつけをめぐる攻防という線が合理的を指示されるのだが、タカチの表情はどこか冴えない。何故。それはとっても悔しい理由なので、読者の何割かはやけ酒かっくらって滂沱することになるだろう。おーいおいおい。

 それにしても西澤保彦。これだけのアイディアでこれだけのミステリーをよく書いた。あまねく公平にという点で、ちょっとフェアじゃない部分があったけど、これはこれで、悔しい理由と裏返しの、彼ら彼女らの物語の今後を占う重要なシチュエーションへの布石となるのだから、決して無駄ではない。でもやっぱり悔しい。

 目の前には、さっき自販機で買った「エビスビール」のロング缶が、空っぽになって転がっている。麦酒を飲んだ頭の中で、麦酒をめぐるミステリーを読んでいる幸せといったら。脇にある冷蔵庫をあけると、同じ「エビスビール」のロング缶が、まだ何十本も並んでる、って流石にそこまではいかないけれど、せっかく盛り上がった気分だ。明日「麦酒券」を握りしめて、「エビスビール」のレギュラー缶(だって小さい冷蔵庫にはロング缶は寝かせなくっちゃ入らないもん)を買いに行こう。


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