バケモノの子

 細田守監督による「バケモノの子」(角川文庫、560円)の長編アニメーション映画は、家族に見捨てられた気がして逃げてしまった蓮という名の少年が、家族といったものと接しないまま強くなってしまった熊徹という大男、というよりバケモノと暮らすようになって、最初はお互いに反発し合っていたものが、それぞれに欠けていた何かを見つけ合い、渡し合うようになって、ともに大きく育っていくという、そんなストーリーが軸にある。

 そこに、父親と息子とのベタベタでもないけれど離れられない関係、嫌ってはいても尊敬する部分も残る関係といったものを投影して、大人には子への慈しみを、子には親への尊敬といったものを感じさせる映画になっている。見終わった後で、外に出た父親と息子が、面白かったよと言い合い「10点だ」「9点かな」と共に高い満足度だったことを話していたのを見るにつけ、狙っただろう層にはちゃんと届いている映画だということは分かった。ただ。

を  見ている最中にずっと漂っていた気分がある。それは、この展開のどこをどう足したり引いたり並べ直したり削ったりすれば、宮崎駿監督の長編アニメーション映画「千と千尋の神隠し」のような、“国民的”とも言える映画になるのだろうか、といったことだ。ふてくされていた少女が、ちょっとしたハプニングで苦労を味わわされつつ、周囲の理解も得てどうにかこうにか立ち直って、そしてたとえ数ミリであっても成長を遂げては元の暮らしへと戻っていくという展開にあった感動や感涙が、「バケモノの子」にはあったのだろうか。そこにまず迷う。

 あるいは、宇田剛之介監督の長編アニメーション映画「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」のように、ひと夏の出会いと経験が、懐かしさの中に新しさを感じさせ、それが一生に残る希望となって少年の中に残り、彼の未来を形作るような物語となって、見る人の感動を呼び起こすことができていただろうかとも考えたりする。

 映画は最初、バケモノであっても人間であっても、父親と息子との関係というのはとても重要だということを、蓮という名を名乗らず、代わりに熊徹から九太という名を付けられた少年が、父親が消え母親を失い親戚から逃げて渋谷の街を彷徨っていたところを、バケモノ界を統べる存在になるために、弟子を取ることを求められて探していた熊徹に拾われ、反発しながらも惹かれ慕っていく関係から描き出していた。

 それが、成長して迷路の抜け方を覚えて現代の渋谷へと戻った九太に、文明社会での導き手となる楓という名の少女を引き合わせてしまったことによって、親離れする子といったベクトルを作り出してしまった。それが、引き合う親子の関係といったものから浮かぶ感動を、どこか減衰してしまっているような気がしてならない。

 捨てていたはずの現代とのつながりを得て、九太に自分を決意させ、そして熊徹にいなくなって分かる親心めいたものを感じさせる展開に、楓との出会いが必要だったと言える。だとしても、感動へと収縮していくベクトルを左右か引き離すような動きとなってしまっていて、どうにも釈然としない思いが漂う。

 そこに加わる、熊徹とはライバル関係にあった猪王山の長男、一郎彦という少年の動静。彼は父親を慕っていたから父親を任した相手に憤ったのか、それとも父親みたいになれない自分に絶望していたのか。どうとはとらえずらい複雑な心理が、一郎彦の心にぽっかりとした穴を開けさせ、そして暴走させてしまう展開が乗って来る。

 本筋を熊徹&九太と猪王山&一郎彦の、似ているようでまるで違った結果を招いた2組の父と子の対比へと物語の比重は戻るものの、そういう関係にやっぱりどうしても地上で出会った楓という少女が絡んで来て、筋の上でどこか余計者のように感じさせてしまう。九太が暗闇へと引っ張られなかったのは楓がいたからかもしれないけれど、彼女だけがいたからではない。熊徹との関係もあったし百秋坊や多々良との関係もあったはずが、そうした部分が覆い隠されてしまうようにも感じられてしまうのだ。

 何かを整理すれば設定や展開に不都合が出るけれど、乗せてしまって薄れるテーマであり感動というももある。それは、現実の世界というものがとても複雑で割り切れないことを現しているからなのかもしれないけれど、そうした現実の憂さを晴らしたいがために人は、フィクションの上に単純化された関係性から感動のストーリーというものを受け取り、感慨といったものを心に浮かばせる。

 そういう割り切りが宮崎駿監督には徹頭徹尾あったのだろう。千尋の出会う人たちとの関係をメインに千尋が感じたり経験したことを軸にして描いていった「千と千尋の神隠し」は、だからストレートな感動を浮かばせる結果となって、それを何度でも味わいたいと、老若男女を映画館へと向かわせた。

 それを踏まえていったい「バケモノの子」はどうなるべきだったのか。これはこれで良いのだろうか。物語のラストも、まだ子供の千尋を現世に戻し、現代から来たユウタを現代に戻すのは当然だった「千と千尋の神隠し」や「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」とは違い、すでにある程度の大人だったにも関わらず、九太に片方だけの道を選ばせてしまっていて、どこかもったいなさを感じさせる。それが彼にとって最善だったとしても、片方には棄てられたような寂しさが漂う。それが子離れ親離れだとしても。

 「バケモノの子」ではストーリーを、キャラクターの心の動きをどうすべきだったのかを、過去の類似した部分がありそうな作品群なども踏まえながら今一度、考え直してみる必要があるかもしれない。もうひとつ、一郎彦があれで実は美少女だったらどういう展開になったか。自分はバケモノだと信じ、なおかつ男の子だとも信じていた美少女だなんて、実に魅力的じゃないか。それなのに…。

 たぶんヒットはするだろう。それでも釈然としてはいない思いは引きずりそう。それがノスタルジーから来る新しい才能への嫉妬から出た不満なのか、構造上に厳然として存在する穴なのかを、見返しそして小説版を読むことでゆっくりと考えたい。


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