ばいばい、にぃに。 〜猫と機関車〜

 なぜ猫なのかといえば、原案のますむらひろしが、キャラクターをすべて猫で描いていたからだということが、ひとつにはあったけれど、杉井ギサブロー監督による映画「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」で、キャラクターが猫になったのは、それより以前からずっと、「銀河鉄道の夜」をアニメーション映画として描きたいと考えながらも、人間を主人公にしては描けないと杉井監督が、映像化をためらっていたことがあった。

 それは、宮沢賢治がこの「銀河鉄道の夜」という物語を、10年ほどかけて推敲に推敲を重ねて書き継いでいった結果、描写がどんとんと抽象化されているということがあって、そういった物語を人間という具体的過ぎる姿では、描けないという理由があったからだと、杉井監督から前に聞いた。

 そんなある時、ますむらひろしさんが猫で描いた「銀河鉄道の夜」が刊行されて、この手があったかと飛びつき、渋る宮沢賢治の著作権継承者や研究者たちを説き伏せ、納得させて映画を作り上げ、あの透明にして深淵な世界観を持った映画「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」を、ようやく世に出せた。

 つまりは、だから猫であるという理由が、あの作品にはしっかりとあった訳だけれど、柳川喜弘が描いた「ばいばい、にぃに。 〜猫と機関車〜」(小学館、619円)という漫画で、キャラクターが猫である理由はいったいなんだろうと考えると、浮かぶのはやはり、苛烈で残酷でもあるドラマを、それでも人に深く激しく感じてもらえるように描くには、優しさと親しみやすさを持った猫という、インタフェースを通す必要があったということになるのだろうか。

 かつて機関車と綽名され、前にひたすら出るボクシングスタイルで勝利を重ね、人気をはくした弐戸というボクサーがいたけれど、いよいよこれから世界を狙うという時、万引しようとした少年をとどめ、諌めようとして膝を刺され、それが原因でリングに立てなくなって引退し、今は廃品の雑誌をごみ箱などから拾い集めては、路上で並べて売って糊口をしのいでる。

 かつて一緒に親に捨てられ、街をさまよい歩いていた弟がいながらも、病気になって失ってしまった過去を持っていた弐戸。そこからボクシングという目標を見つけ、再起しながらも怪我で道を断たれてしまい、未来を失ってからずっと茫洋とした暮らしの中にあった。かつての弐戸の活躍を好み、今も再起を信じて面倒を見てくれるヤクザの組長や幹部もいたけれど、それでも立ち上がるのには遠かった。

 そんなある日、雑誌を拾いに立ち寄ったコンビニで、そういうことをされては困ると注意に出てきたアルバイトの青年が、死んだ弟の次郎にそっくりだと気づいた。なおかつその青年がボクシングをやっていると知って、弐戸は彼に好感を抱き、つきまとい、ボクシングを教え始める。

 実はその青年こそが、かつて弐戸を刺し、再起不能に追い込んだ少年だった。そのことを弐戸は知っているのかいないのか。不明ながらも弟の影を追い、また才能への光明を見て熱心にボクシングを教え込もうとする。そんな熱意にも青年は、自分がかつて弐戸を刺した少年だと告白できないまま、後悔を引きずりながらボクシングを続けている。

 「あしたのジョー」や「タイガーマスク」の時代に戻ったかのような、骨太で泥臭い物語。それを劇画調に描けばきっと、それなりに読ませるストレートで激しい物語になっただろう。けれども「ばいばい、にぃに〜猫と機関車〜」で柳川喜弘は、猫をキャラクターに選んだ。このことで世界に親しみやすさが浮かび、個々のキャラクターたちが持つ刺々しさが引っ込んで、どこかおだやかで優しい空気が漂うようになった。

 もちろん、ストーリー自体は、青年がヤクザから八百長をやるようにと申し込まれながらも、ボクサーでありたいとそれを断って、ヤクザの鉄砲玉につけねらわれるといった具合に、シリアスさを濃くして進んでいくし、そんな組長の企みを知ってかけつけ、青年を守り傷つく弐戸という壮絶なドラマも繰り広げられる。

 キャラクターが人間だったら、泥と血と汗にまみれた話となりそうなところが、猫の衣を被せることによって、ぐっと身に近寄ってきて、そして深いところまで読み込めそうな、そんな気にさせられる。死神という、弐戸に寿命を告げる存在も、猫で描かれるからこそそこに存在を許される。

 こういった解釈がほんとうに正しいのかは分からない。けれども絶対に意味はある。でなければ柳川喜弘がキャラクターを猫で描くはずがない。どういう理由なのだろう。そして自分はそこになにを感じたのだろうと、その時は深くなくてもいいから、心の端に置くような気持ちで読んでいこう。

 そして、読み終えて浮かぶ感動の向こうに、どうしてこのキャラなのだろうかと改めて考えつつ、真意を探り、より深い感涙と感嘆にたっぷりと浸ろう。


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