あしおと
修羅の跫

 小説好きコミック好きの人たちに、「陰陽師」と聞いて10人のうち8、9人は「安倍晴明」を挙げるくらい、その名前は小説やコミックを通じて広く知れ渡っている。逆に言えば晴明ではない陰陽師など思い浮かばないくらいに、代名詞として晴明の名前はすっかり定着し、かつ平安時代を代表するスーパーヒーローとして、その人気を不動のものとしてしまっている。

 その功績の多くはおそらく(というより多分に個人的な記憶に頼れば)、夢枕獏の小説「陰陽師」であり、これを原作とした岡野玲子の漫画「陰陽師」であり、加門七海のヤングアダルト「晴明。」であったりするのだが、単に稀有の才を誇示し、圧倒的な力によって魔を調伏するだけのスーパーヒーローだったなら、なにも陰陽師に限らず武士でも僧侶でも良かったはず。だが晴明の場合、才能も力も他を圧するものを持ちながら、どこか物憂げで、妖しい雰囲気があり、苦悩を秘めている部分が、大勢の作家と大勢の読者を惹きつけてやまない。

 かくも格好の素材を、あるいはかくも格好の素材だからこそ、当代きっての物語師たちが晴明に挑みその生き様を活写し、かくして晴明ばかりがその名声をさらに高めていく。しかし晴明自身が加茂家で陰陽道を学んだように、晴明ばかりが陰陽師ではないのは歴史的にも明白な事実。先に記した以外にも、大勢の文筆家がその素材に惹かれ、あるいはその素材にあやかろうとして晴明に取り組むことは仕方がないとしても、なかに晴明ではない陰陽師を素材にして、先達を上回る文才によって晴明に迫る存在感を導き出す可能性は、絶対に否定できない。

 現に小沢章友による土御門典明のシリーズがあって密やかながら確固たる人気を獲得している。また土御門有匡を主人公にした平井摩利(平井和正の息女とな)による漫画「火宵の月」のシリーズがあり、時代は下がるが荒俣宏、京極夏彦らの陰陽師に関わる一連の著作もあって、晴明人気に頼らないジャンルとしての陰陽師物の豊饒を、我々に予感させてくれる。そしてここに登場した、全くの新鋭による新しい陰陽師を主要キャラクターとした小説が、10人中の8、9人を7、8人に、あるいは6、7人に引き下げる役割を担うべく、爆発の時を虎視眈々と狙っている。

 富樫倫太郎。学研が主催する「歴史群像大賞」に応募して第4回の大賞を獲得した彼が、受賞作の「修羅の跫」(学習研究社、980円)に登場させた陰陽師は、名を安倍泰成という。名字が示すように安倍晴明の一門に属する者のようだが、歴史的にその名はまったく知られておらず、あるいは作者の創作による陰陽師なのかもしれない。むしろ後者の可能性の方が強く、じっさい巻末にある作者の後書きによれば、泰成は時代を超えてその存在を記録に止め、果てしない修羅との闘いに身を投じている人物として設定されている。

 場所は平安の京、陰陽師がまだ陰陽師として朝廷でしっかとその地位を確保していた時代を舞台に物語は展開される。当時、京は白河法皇と孫にあたる鳥羽上皇が、権力をめぐって激しい対立を続いていた。そんな折、河原にバラバラにして積み上げた死体が何体も出現し、いっしょに鳥羽上皇が呪われているとの噂が広まっていた。上皇に着き従っている陰陽師の安倍泰成は、呪いの目的が京に阿修羅を呼び込もうとしている法皇側の企みと知るが、敵も去るもので泰成が仕組んだ上皇の住まいの封印を、内部から崩すために恐ろしい妖怪を送り込んで来た。

 実は泰成以外にも、京に迫っていた阿修羅の脅威に気がついている人物がいた。比叡山延暦寺に住む高僧の遼海は、寺に伝わる古文書から呪いの目的に気付き、その企みを妨害するために鬼若と呼ばれるかつて盗賊団の若きリーダーだった男を都へと送り込んでいた。実は鬼若は、遼海に拾われるまでは酒天童子として悪事の限りを尽くし、都から姫君をさらい近隣の村から作物を奪っては、放蕩に溺れていたのだった。

 そんな酒天童子も、姫君をさらわれた貴族の頼みを入れた鳥羽上皇の院宣を受けた源為義と彼に着き従う四天王、石井貞光、藤原保昌、渡辺綱(羅生門の鬼で有名)、坂田金時(幼少に金太郎と呼ばれた)によって追いつめられ討たれかけた。必死で逃げ出したものの力尽き、瀕死の状態にあって地獄で責め苦を受けていたところを遼海らに救われて、善い行いをすれば極楽に呼ばれると聞き、遼海の下で阿修羅から都を守る役目を果たそうとしていた。

 白河法皇と鳥羽上皇の権力をめぐる争いに、栄達を目指し地位を確固たるものにしようと企む源氏と平家のつばぜり合い、地獄は嫌だと遼海に従う鬼若を敵と覚えて挑む金時といったさまざまな表面上の対立が描かれるその裏側で、鳥羽上皇を腑抜けにして命を奪おうとする妖怪と縁浅からぬ泰成の、全霊を傾けた妖怪との対決の様が描かれる。そこから見えてくるのは、永遠に行き続ける魔人・泰成と阿修羅との何千年何万年にも及ぶ闘いの歴史だ。

 すでに作者によって書かれ始めているという物語では、幕末・函館戦争を舞台に泰成が絡む展開が予定されているようだが、それ以外にも遠く過去の秦の時代から、おそらくは遠く未来に至るまで、ちょうど手塚治虫の「火の鳥」に登場してはすべての物語で重要な役割を果たす猿田彦のように、安倍泰成が陽となり影とななりながら、彼の周囲で欲望にたぎらせ権力に溺れる弱い人間たち、苦境に立ち向かい不幸をものともせず生き抜こうとする強い人間たちの生き様が、描き出されていくことだろう。

 鬼若の子を宿して山道へと旅だった少女・さよの行方も気になるし、地獄で責め苦にあえぐ鬼若がどうなるのかも気にかかる。人々を惹きつけてやまない数多くのキャラクターを生みだし、マクロからミクロまで人々の関心を誘ってやまない謎を残し、「修羅の跫」は壮大な物語のプロローグとして幕を閉じる。始まったばかりのこのサーガが、何時いかなる形で完結するのか作者すらわからない様子だが、その時が来た暁には、安倍泰成という名前はきっと、晴明にも匹敵する偉大なる陰陽師として、あるいは加藤保憲を超える恐るべき魔人として、10人中の10人が挙げる人物となっていることだろう。


積ん読パラダイスへ戻る