僕たちは歩かない

 ぎゅうぎゅう詰めの時間に追いまくられて、息をつく暇もなく生きている都会暮らしの現代人が、心から欲しているのはお金でもなければ、名誉でもない。時間。自分の自由になる時間が、1日のうちにたった数時間でもあれば、この人生を素晴らしいものに出来るはずだと確信していのに、誰もそのたった数時間を、見つけることができない。

 それも当たり前の話で、この地球では1日は24時間だと決まっていて、誰かには25時間あったり、別の誰かには23時間しかなかったりすることはない。絶対にない。富める者も、貧しき者もこればかりは平等。もっとも富める者は、自分だけの時間をお金で買って自在に使うことが出来るけれど、貧しき者は、時間を買うお金を稼ぐために時間を目一杯、使ってしまうから、いつまで経っても時間は手に入らないのだけれど。

 あとはそう。他に使うべき時間を回すことだけど、それは眠る時間だったり、食べる時間だったり出会う時間だったりと、削ったら削ったで幸福の一部が奪われてしまう、他に代えがたい時間ばかり。やりたいことも大切だけど、眠ること、食べること、出会うことだって大切だ。だから僕たちは求めてしまう。ありもしない、余った時間を。

 古川日出男の「僕たちは歩かない」(角川書店、1200円)は、そんな、ありもしない時間を見つけてしまった人たちの物語だ。フランス帰りやイタリア帰り。星のいくつもついたレストランで修行し帰国した若者たちが、働く現代の日本の厨房で本格的なシェフの仕事をさせてもらえず、悶々としていたある時。2分間だけ山手線を余計に乗って降りた駅の外で、人気のないレストランを見つけ、厨房に入り込んでは電車の中で浮かんだインスピレーションをもとに、料理を何皿か作ってみせる。

 そんな経験を繰り返すうちに、2分間だけ余計に電車に乗った先にある駅の外の世界が、普段暮らしている世界よりも2時間だけ多いと気づく。自分だけの2時間。修行した腕を振るい、浮かんだインスピレーションを形にできる至福を味わえる2時間。そしてその時間を、他にも味わっている料理人の仲間たちがいて、やがて1つの研究会が誕生する。

 メンバーは料理のことを語らい合い、腕を競い合って余った2時間を大いに謳歌した。そのうちに成果を披露してみたくなり、それぞれが働く見せによく顔を出す客で、2時間多い世界のことに気づいている画家を招いて、もてなした。喜んでくれた画家を見て研究会の皆も喜んだ。未来が開けた。自分のために使えて、出会いもあって、食べる楽しみもある時間が明るい未来を見せてくれた。ところが。

 一変して哀しみが訪れた。取り戻すことのできない喪失に打ちのめされた研究会の仲間たちは、余った2時間の意味を知り、その2時間が積み重なって出来る時間の中へと向かって、雪の中を進んでいく。電車を乗り継ぎ。駅を降り。地面に足を着けることなく。歩かずに。

 意識として流れるのは、時間というもののかけがえのなさ。余計にもらった2時間を精一杯に楽しんで、腕を競い合い心を通わせ合った研究会の仲間たちにとって、それは言わずもがなのことだろう。加えて、同じ時間を過ごした仲間の絶対的な喪失という、冒険の果てに得た再会によっても変わることのなかかった事実が、取り戻すことの出来ない時間の大切さを、強く思い知らせる。

 2時間多くても、2時間少なくても時間は未来にしか流れない。今という時間を重ねて行くだけで、決して後戻りはできない。ぎゅうぎゅう詰めの時間に追いまくられて泣いていたって、自分の自由になる時間を得て喜んでいたって、それは同じだ。言えることはたった1つ。生きるのだ。今を。精一杯に。

 幻視的な物語が、まばゆいビジョンを放つ言葉によって綴られていた「13」や「沈黙」を経て、壮大な歴史絵巻を言葉の大伽藍として築き上げた「アラビアの夜の種族」や、近未来が舞台の青春群像劇「サウンドトラック」を著しつつ、「gift」や「LOVE」といった、都会の断片を切り取り見せる物語にも挑む才能の多彩さで、21世紀の文学をかき回し続ける古川日出男。「僕たちは歩かない」は、タイプとしては「gift」のような都会の奇蹟を含み、「ルート350」のように心安らぐ不思議を描いた作品の系譜に連なる。

 あり得ないけれど、あるかもしれないと思わせては、この世知辛い現実とは1枚皮を隔てて存在する世界を感じさせる物語が醸し出す雰囲気は、村上春樹の一連の著作とも重なる。もっとも最近の村上春樹は、仕掛けも大仰になり突きつけられるメッセージもなかなかに強烈で、人によってはまさしく「やれやれ」という気持ちにさせられる。

 そうではない。かつてのシンと静まりかえった空気に混じったザラっとした肌触りが、ここではない別の場所を想起させてくれた物語を、また読みたいという人にとって、古川日出男の作品は最適だ。「ルート350」しかり。この「僕たちは歩かない」しかり。手に取れば、一生に刻まれる読書体験、かけがえのない時間を味わわせてくれるだろう。


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