APE LITTLE FOOL

 目を開けて、そこが夢の世界だと知ったら貴方は、そこから逃げ出したいと思うだろうか。それとも永遠に耽溺していたいと願うだろうか。夢だと気付いた瞬間に、いつか覚めるだろうという恐怖が常に身を脅かすだろうことは、想像に難くない。だが、現実の世界だっていつかかならず終わるもの。だったら覚めるまでの一時を、あるいは胡蝶の夢のように永遠に並ぶ時間を、夢の中で漂っていたいと思って当然だ。

 問題はそう、そこが夢だと気付かない場合だろう。身に迫る際限のない危機、繰り返される非日常、逃げようとして逃げられない焦燥感。それは死によって終止符が打たれる現実の世界よりも、なおいっそうの恐怖をもたらす。記憶は連続していなくても、刻みつけられた恐怖はいつかキャパシティーから溢れだし、恐慌の淵へと人の心を追い込むだろう。

 「APE LITTLE FOOL」(大塚ヒロユキ、新風舎、1500円)の主人公、サムの場合はそこを夢だと思っていたのだろうか。それとも現実と、けれども現実には存在しない奇妙な出来事が次々と起こる場所だと認識していたのだろうか。少なくとも冒頭の、砂漠で美女の駆る右ハンドルの古いフィアットに乗った場面で、サムはまだ気付いていなかった。「これはあなたの夢なのよ……」。そう彼女がサムに告げ、やがて景色が揺らいで次にベッドで目覚めた時も、テレビのヒューズが飛んで何でも屋のジョニィーに修理してもらった時でも。

 次第に景色が変容し、繰り返される日常が少しづつ変化していく中で、サムは「エスネスノン」(ESNESNON、とでも綴るのか)と名乗る謎の団体が、高額の懸賞金をかけて探し求める「ウサギムササビ」なる生き物を捕まえ、依頼人に渡すよう何でも屋のジョニィーから言いつけられる。街をさまよい、深夜の時計塔へと向かい、謎めいた人物たちと出逢って再びの微睡みへと迷い込む。

 サムのエポソードと対をなすように挟まれる、サムの世界では追跡される対象の「ウサギムササビ」を、身に侍らせる女が街を歩くエピソードの果たして何を意味したものか。繰り返されるつつも歪み続けるサムの世界が、次第に閉鎖された空間のように感じられ、「ウサギムササビ」の追跡は、そこからの脱出をも意味する行為なんだと見えて来て、改めて突きつけられるのが冒頭に掲げた命題。夢からの逃亡、それが果たして正しい道なのか、或いは永遠の停滞に身を委ねるべきなのか。

 サムは選ぶ。すべてを知って、「無意識に足をおき、意識を飛び越える」のだと、進むべき道を示されてなお、サムは自らの意志によって答えを導き出す。それが正しいことなのか、間違っているのかを他人が判断することは不可能だ。けれども決して悪くはない道ではないかと惑わせるエンディングに、何故か心が引かれてしまうのは、誰もがサムと同様に、永遠に夢を見続けていたいから、なんだろう。

 ニューヨークのような東京のような都会でありながらも、喧噪よりは静寂、猥雑よりは清浄な雰囲気を漂わせる街のビジョンが、小説でありながらも瞼にくっきりと浮かぶ。そんな空間をさまよう人々の淡々とした心理描写、「ウサギムササビ」なる奇妙な名前の可愛らしい形状を想像させる生命体、ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」に登場する「トライステロ」とも重なる、謎めいた目的を掲げ謎めいた名前を持った団体のイメージがスパークする。

 クリーム色の下地に、いろいろな階調のブルーで同じデザインの「ウサギムササビ」が、小から大へと重ねられた表紙のデザインが、どこか人工的な雰囲気を醸す、物語世界でサムの暮らす街の静寂で清浄な雰囲気を思わせる。そして物語の中核をなす、「不思議の国のアリス」を想起させる不条理な追跡譚が、読む者の気持ちを引きつけ容易に離さない。

 都市に息づきながらも、現実感に乏しい人間たちにとって、生きている以上は信じざるを得なかった足下を、グラリと歪ませ幻想の世界へと陥れ、その透明な空気の中に漂わせてくれる小説だ。デザイナーというイメージによる表現が本職の著者が、言葉によって紡ぎ出す物語世界の、失礼を承知で言うなら意外とも言うべき確かさに、驚き賜え。


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