アナザー・ビート 戦場の音語り

 「シアンの憂鬱な銃」(電撃文庫、610円)で見せた、クールでハードボイルドな雰囲気からは一変。佐原菜月の「アナザー・ビート 戦場の音語り」(電撃文庫、670円)は、音楽が人の心を動かし、行為へと導き、戦いにすら向かわせることがある世界を舞台に、人が音楽というものとどう向き合っていくべきかを描いたファンタジー小説となっている。

 王国があって神国があって、その間で繰り広げられた戦争が終結して15年。終戦の条件として騎士団を解散させられた王国では、“旋律士”と呼ばれ生まれながらに現実の世界でいう楽器のような音を奏でられる器官を持った者たちが、権力の象徴として尊ばれ、貴族たちによって囲われ楽団が作られるようになっていた。

 そんな“旋律士”の卵でありながら、あまり巧く音を操れないコハクという少女は、進級できなかった悔しさから音楽学校を抜け出し、祭りが開かれる街までいってそこで貴族たちから依頼がひっきりなしに舞い込む、売れっ子作曲家のヂェスという青年と出会う。

 “旋律士”という正体が露見しながらも、コハクはすぐに突き出されることはなく、ヂェスの友人でなぜか女装をしているジルバという青年も加わった中、コハクはその街で行われた祭りを見学し、そして音楽学校に帰っていく。ところが、祭りの最中に知り合った、ヂェスによく作曲を依頼していた貴族からボディーガードになってくれるよう頼まれる。貴族が抱える楽団を間近に見られるチャンスと思い、コハクはその依頼に応える。これが激動の始まりだった。

 商売を手広く営んでいた貴族は、コハクを連れて神国へと赴く。、そこでコハクは、その国にはいない“旋律士”としての力を見せて認められ、神国に止まるように法王から頼まれる。とはいえ、音楽がない暮らしに耐えられないコハクは、街に出て自分があまり得意としない、ゆえに“旋律士”の試験には合格できなかった堅苦しい音楽ではなく、自在に奏でられる音楽を演じて、街の人から喝采を浴び、慕われるようになっていく。

 その裏に法王の企みがあり、そんな企みを感づいてヂェスやジルバ、そしてヂェスの従姉妹というエマらが立ち上がって、決起し王国に再び挑んできた神国との対決に臨むことになる。その戦いで明らかになるヂェスの過去。そして正体。彼は作曲家としての立場ではなく、過去に置いてきた立場で戦いの最前線に立って、神国側にとらわれた形のコハクに歌うように呼びかける。

 そうして奏でられた歌が、とてつもない事態を引き起こして世界を変え、人々を誘う。なるほど歌が世界を、宇宙を揺るがす話なら「超時空要塞マクロス」のシリーズに例を取るまでもなく多々あるし、感動によって怒りや憎しみが乗り越えられていく物語も例は多い。そういう話が好きな人には絶好の物語。なおかつ“旋律士”という存在が成立し得る世界の有り様を、想像する楽しみがある。

 ヂェスがリズムを刻んでジルバが踊っても、それが音楽にはならないという世界観。この世界では音楽とはどういったもので、それをどうして“旋律士”だけが奏で得るのか。現実とは異なる世界の有り様が、どのように人を、社会を、世界を形作っているのかを見ることで、音楽というものの価値を改めて問い直すことが出来る。誰にでも奏で得ないからこその尊さ。それ故に起こる影響の大きさ。想像力が駆使されて生まれた世界を味わいたい。

 “旋律士”のそれぞれが持つ器官によって奏でられる音が、少しずつ違っているという設定も興味深い。楽器でいうなら金管木管等々の違い似た差異が“旋律士”の器官にはあって、巧さにも差が出てくるのはなぜなのか。遺伝だろうか、体格だろうか、性別だろうか、鍛錬だろうか。そんな辺りについて教えてくれるエピソードもあれあれば良いけれど、本編のまとまりから想像するなら、これはこれで完結した物語として受け入れるのがよさそうだ。

 1冊で冒険心をくすぐられ、感動を得られる良質ファンタジーとして、末永く読まれていって欲しい。


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