あねチャリ

 L’Arc〜ne〜Ciel(ラルクアンシエル)という名のバンドが現れるより前から、「虹」を意味するアルカンシェルという言葉を知っていたのは、読み始めていた「サイクルスポーツ」という自転車専門誌で、トップ競輪選手だった中野浩一が世界選手権に出場して、3連覇を果たしたという記事に触れていたことが、根っこにある。

 そこから中野浩一は、連覇を重ねて前人未踏の10連覇を達成し、日本どころか世界に名をとどろかせるアスリートになっていくのだが、そうした過程を追ううちに、自転車の世界選手権で勝利者した人が着られるジャージが、入れられた虹色のストライプにちなんで、アルカンシェルと呼ばれていると分かってきた。

 だから、その後に現れたラルクアンシエルというバンドの名前を聞いた時も、何を意味しているのかはすぐに理解できたが、世界選手権を知らない人に、このフランス語がどう響いたのだろうか。いささか興味も及ぶところだったりする。

 1990年代に入ってロードレーサーを駆る人が増え、ツール・ド・フランスのような自転車競技に大きな注目が集まるようになってはいても、世界選手権で勝利者に与えられるジャージが、アルカンシェルと呼ばれていると知っている人は、それほど多くはない。先に世界選手権を知っていた人が、ラルクアンシエルの登場に世界選手権との関わりを思い起こしたのとは逆に、世界選手権に日本のロックバンドの影響を感じてしまう人も、あるいはいたりするのかもしれない。

 だから、川西蘭の「あねチャリ」(小学館、1300円)という小説の帯に書かれてある、「奇跡の『虹色ジャージ(マイヨ・アルカンシェル)』物語」という言葉だけを読んで、それが自転車競技で世界を目指す話だと感づいてもらえるのか、それともラルクアンシエルと関わりのありそうな音楽業界物の小説なのか、即座に誰もが判断できるかは難しいところだろう。

 とはいえ、全体を見れば、タイトルに「チャリ」と自転車を意味する言葉が入っていて、表紙にも自転車に乗る女性らしき人物の姿が描かれているから、それでも音楽物ととらえられる可能性は相当に低い。なおかつ、脇にしっかりと「日本初の女子ケイリン小説」と書かれ、また大きく上に「“ピストの妖精”現る」と書かれてあるから、ピストという特別な用語が何かは抜きにしても、自転車競技に女子が挑む話なのだということを、感づかせられるそうではある。

 バレーボールをケガで挫折した女子高生の早坂凛は、ひきこもり気味だった暮らしで太った体重を減らそうと、近所の堤防のサイクリングロードを、家にあったママチャリで走っていた。通りかかったロードに追いつこうと力をいれてペダルを漕ぎ、心地よさを感じていたらタイヤがパンク。困っていたところ、通りかかったいた男が手際よく直してくれた。

 瀧口正和という名の男は、かつて恐竜とあだ名され称えられた元競輪選手で、今は引退してリサイクルショップなどを経営していた。瀧口に勧められて乗ってみた自転車の爽快感から、自転車競技への関心を抱いた凛は、弟子を取ることを渋る瀧口を説得し、学校に復帰してもらいたい母親から半ば逃げ出すように家を出て、瀧口に弟子入りを果たして、彼が凛に課した厳しい訓練をこなしていく。

 最初はロードから始め、ピストにも乗るようになり、将来有望な競輪選手候補とも出会って切磋琢磨しながら、凛は自転車競技者として成長していく。ギャンブルとしての競輪の世界に女子はおらず、男だけのの世界という偏見もあって、練習に赴いた競輪場で凛を排除しようとする男も現れ前途は多難。それでも、しっかりと訓練をこなし、負けん気も発揮し、成績で周囲をうならせ理解を得ていったその先に、女子にとっての檜舞台ともいえる世界選手権で、誰もがあこがれる虹色のジャージ、アルカンシェルに迫るという快挙を成し遂げる。

 目標に向かい、頑張り続ける人間から放たれる生命感。絶対に無理だからと理解されない中を、ひたむきさで突き抜け、周囲を唸らせねじ伏せていく爽快感。スポーツ物に共通の感覚を存分に存分に味わえる。弱いと見なされがちの存在が、鍛錬の果てに大逆転を繰り出す痛快さは、スポーツ物の枠を超えて、あらゆる人を心地良くさせる。

 読み始めれば引き付けられ、その中で競輪なり自転車競技への理解も深まっていく。同時に、自転車競技を実際にやってみることの難しさも見えて来る。力をロスなくタイヤに伝えるペダルの回し方に、ブレーキのついていないピストの走らせ方、止まらせ方。どれも一朝一夕には体得できない。読めば、ピストはただファッションで乗るべきものではないと分かる。自信があったとしても、起こり得る危険を考えれば、ブレーキもつけずに町中で転がして良いものではないと分かる。

 頑張った者にもたらさられる、共感や賞賛の嬉しさも感じられる。親の反対を押し切って家を出た凛が、仕事として任されたアパートの管理人として面倒を見る老女の頑固さに、時に苛立たせられる場面もある。けれども、凛の成長を最後に喜ぶ老女の言葉には、つい涙も浮かんで、頑張り抜く大切さを知らさる。

 老女から放たれる皮肉にも苛立たず、平静を保ち親切に対処していくことが、凛にとってのメンタルトレーニングにもなったのだろうか。そこまで考えてのことだとしたら、師匠の瀧口も、恐竜という力任せの競技ぶりしか思い浮かばないあだ名に似合わず、なかなかの策士だったと言えそうだ。

 今はまだ、自転車=ロードといた観念が蔓延している状況。そんなロードについては、小説も漫画も多々あって、川西蘭自身も「セカンドウィング」という小説を書いている。しかし、ケイリンで女子ともなると、ほかには余りない。「あねチャリ」は、ケイリンなりピストなりトラックレースといった、ロードとはまったく違った世界が自転車競技にはあることを、知ってもらうには絶好の小説だ。売れてドラマ化でもされれば、もっと日本に女子のピスト選手が増えていくことにつながるかもしれない。

 そこから世界に羽ばたき、早坂凛よりも先にアルカンシェルに袖を通す女子の自転車競技選手が登場するかもしれない。中野浩一の10連覇から20年近くが経って、世界選手権で活躍するあまり見かけなくなった。アルカンシェルがラルクアンシエルとは無関係で、自転車の世界選手権のシンボルだと知れ渡り、そんな世界の檜舞台で活躍した、中野浩一というアスリートの偉大さを思い出してもらうためにも、「あねチャリ」は広く知られるべき小説だ。


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