アンダンテ・モッツァレラ・チーズ

 わずかに190ページ。なのにこの充実ぶり。藤谷治の「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」(小学館、1300円)は、登場人物からシチュエーションから詳細に、それも巧みな比喩を折り混ぜながら徹底して描写していく濃密な筆遣いに、読む人のページを繰る手はゆっくりしたものになるらざるを得ない。

 かといって決して難解ではない。むしろ激しく分かりやすい。つまりは濃密過ぎる描写がとてつもなく面白過ぎるということで、一字一句を逃さず読まなきゃっていけないという気分にさせられて、知らずストーリーに気持ちを引き込まれてしまう。そして笑いの渦に巻き込まれてしまう。

 まずは登場人物の紹介から。14歳で家を飛び出し世界を渡り歩いて帰国。全身にタトゥーが入った豪快な女傑の山田由果に、彼女と付き合っている大学卒の生真面目な34歳、情報資料部資料課課長代理の溝口健次の2人が、一応の主人公的なポジションにいる。

 そして路上ミュージシャンをしながら溝口健次の会社でアルバイトをしている篠原京一、京一を慕って同じ会社に入社してしまった白金在住の超がつくお嬢様、推定体重25キロの幽霊みたいな容姿をしている千石清美、窃盗の前歴があり金庫を開ける特技を持った大森浩一郎。5人はいずれも同じSISという、医学雑誌から論文を探してコピーし医師らに配達する会社に勤めている。

 生い立ちも経歴もてんでバラバラな彼ら彼女たちが、どういう経緯で同じSISに集まるようになったのか。そんな描写がすでにひとつの面白さに溢れたドラマなのに、まるで重ならない彼女ら彼たちが同じベンツのミニバンに乗って、世田谷から浅草の会社へと通うようになったのかという説明は、あって不思議はないとは言ってもあったらやっぱり凄い経緯。そんなシチュエーションを考え出した作者の妄想の力に、心からの拍手を贈りたくなる。

 もっともこれすらほんの序の口。面白さの本番はここから始まる。さらに1人の登場人物。野茂美津夫という名のSISでは営業部部長と、これまで出てきた5人とは格が上なら属性も正反対の男が画策した陰謀によって、「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」の5人の平穏にしてお気楽な日々に暗雲が立ちこめる。その陰謀とは?

 というより以前に説明しておかなければいけない「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」。それはひょんなことから生まれた言葉で、ルーツは総理大臣について語ることから始めなくてはいけないものだそうで、巡り巡って「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」となって、ベンツのミニバンで会社に通う5人の場を現す言葉となって定着する。説明になってない? 説明のしようもない。

 おっと陰謀だった。この野茂美津夫、どういう訳かタトゥーの入った女性に並々ならぬ関心を抱いているそうで、それはもはや性癖ともフェティシズムとも呼べる強さで野茂美津夫の気持ちを支配していて、全身にタトゥーの入った由香への執着となって発露して、挙げ句に由香と暮らす溝口健次への敵意となって爆発する。

 そして起こった「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」崩壊の危機。けれども健次と由香の互いに意地を張り合う気持ちが危機を甘んじて受け入れようとする方向へと働き、他の3人を苛立たせ悲しませる。ところが起こった「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」の再結束。意地を超えて吹き上がった愛と嫉妬の情念が、ベンツの大暴走を呼び圧巻のクライマックスを招いて、読者を大興奮の境地へと至らせる。

 青春と呼ぶには歳をちょっぴり取りすぎだけど、それでも青春と呼びたくなるような男たち女たちの打算なきつながりに気持ちを惹かれ、こんな関係を持てたら良いなと憧憬を誘われる。それから「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」に象徴される間抜けさ、くだらなさ。読めばこの世の憂さも吹き飛び心も晴れやかになって来る。

 「蛇から血が出てヘービーチーデー」「蛇から血が出てへービーチーデー」。突然出てくる、落語家が発明したらしい言葉の可笑しさに、ページをめくる端から笑いがこみ上げる。

 深刻に世の中のことを考えるのが、とてもつまらないことのように思えくる小説。気持ちがすっきりとして心身のリフレッシュに役立つ小説。上司の無理解に苛立つサラリーマンもOLも、将来に悩むフリーターも学生も、読んで楽しんでついでに一緒に唱えよう。「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」「蛇から血が出てヘービーチーデー」。ほうら心がほぐれて来た。


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