競技かるたがスポーツだということは、末次由紀の漫画「ちはやふる」によって、広く世間に周知された。長い時間を同じ姿勢で座り続け、読手の声に瞬時に反応して体を前方へと向け、腕を伸ばして読まれた札を取る。

 耳に聞こえた音と体の動きを結びつけるには、相当な訓練が必要だし、1日に5試合とかにも及ぶという、長時間の競技を戦い抜く持久力も必要。ランニングに柔軟に素振りを必須とした競技かるた強豪校の練習メニューは、字面だけ見れば野球のそれと変わらない。

 将棋も実はスポーツだというと、少し違和感を覚えられるかも知れない。とはいえやはり長時間、名人戦のようなタイトル戦なら2日間をかけて思考をめぐらせ、戦い抜く持久力は、たとえ座ったままとはいっても体力のない人には相当に厳しい行為だ。

 持病があった故・村山聖九段がタイトルホルダーとなることなく逝ったのも、女流棋士と呼ばれる人たちが男子も女子もない奨励会を抜けてプロの棋士にたどり着けないのも、将棋が体力を求められるスポーツだからだという意見に、聴くべき要素はある。

 それならば雨乞いはスポーツか、と聞かれてそれは流石に魔術や呪術や加持祈祷の類だろうから、スポーツとは言い難いという意見が多く返ってきそう。そういう声には青柳碧人がスポーツ雨乞いという競技について書いた「雨乞い部っ!1」(講談社ラノベ文庫、620円)を、とりあえず読ませてみよう。ページを開いて綴られているストーリーを読めば、雨乞いが現代においてどれくらいのポジションを占め、そしてどれくらいスポーツで、科学で、何より青春なのかが分かるはずだから。

 古来より雨乞いは、世界各地で大地に恵みの雨をもたらす儀式として、執り行われてきた。けれどもある時、蛇ノ目木葦麿というエンジニアが、「突如雨乞いに目覚め」て雨乞いを探求し、研究の果てに「レイン・コーラー」なる雨乞い専用道具を発明したことで、様相が一変した。

 その「レイン・コーラー」を左手に装着し、必要な所作を行うことで、大気中の水蒸気と、体の水分とを集めてたちどころに小さな雲を作り出すことができるのだ。誰にでも簡単に扱えるものではなく、正しくステップを踏んで舞い、正しい節を口ずさみ、そして精神力を集中しなければ、「レイン・コーラー」は雨を降らせるどころか、雲すら空中に作り出さない。

 種類も抱負で「桜雨の舞」に「河童笑いの舞」に「蛙合唄の舞」など、それぞれに必要なステップがあり、節があってそれらを完璧に体に叩き込んでおかなくてはならない。だから鍛錬が必要になる。体を鍛え正しい舞いを覚えそのとおりに体を動かしなおかつ、全身から水分を絞り出さなくては、「レイン・コーラー」を使った雨乞いは成り立たない。

 まさにスポーツ。これこそがスポーツ。こうしてスポーツとなった雨乞いは、日本では関西を中心に盛んになり、海外にも広がって、誕生から30年ほどが経った今は、誰でも聞かれれば存在を知っているくらいのものになっていた。マイナーなことには変わりはないけれど。

 学校でも部活などで行われるようになっていて、曇天橋高校に進んだ照島陽太という少年は、その高校にもあった雨乞い部に所属する先輩の梅山柚香の美しさに惹かれ、虹町なたねという同じ中学から進学してきた女子に引っ張られたこともあって、雨乞い部に入部してしまう。

 そして繰り広げられるのは、雨乞いがなかなか思うようにできないことへの懊悩であり、部内の恋をめぐる騒動であり、ライバルたちを相手にした激しいバトル。散らす汗をも水蒸気に変えて、雨を降らせることに邁進するその激しさは、野球やサッカーやアメリカンフットボールやラグビーやバレーボールや卓球といった、スポーツをテーマにした青春物のストーリーとまるで変わらない。

 すべての決着がついたあと、誰の顔にも浮かぶ微笑みや、苦労ともにした者たちだけに通い合う心の美しさも同様。読み終えればスポーツ雨乞いなる競技に、挑んでみたいと思えてくるだろう。どこに行けば挑めるかは分からないけれど。

 とはいえ、単に柚香先輩の美しさに惹かれ、その透けブラが見たいという思いで雨乞い部に入った陽太が、雨乞いという行為そのものに、最初はあまり興味がわかなかったのも仕方がないところか。ネイティブ・アメリカンの血を引く少年で、かつて屈指の雨乞い師として大地に凄まじい雨を降らせた結果、干魃に喘いでいた仲間たちは救えたものの、家族のように愛していた犬を振らせた大雨に流され、失ってしまった過去を持つ小野・“グリズリーハンド”・オウェハ先輩から、その精神の至らなさを指摘されても、容易には治らない。

 それでも、コーチとしていついてもらった老師から、煩悩であっても極めればパワーになると諭され、雨を降らせて女性が着ているTシャツを濡らして透けさせ、下に書いてある文字を誰よりも早く読みとる競技で陽太は、今まで以上の力を発揮してみせたりする。そんなあたりに、純粋な思いだろうと邪な思いだろうと、スポーツとしての雨乞いには等しく効果を発揮するのだということが見えてくる。

 そうした煩悩まみれの雨乞いを、雨乞いと認めて良いのかがおそらくは、雨乞いを神との対話と考えるオウェハ先輩を一方の極において、スポーツとしての雨乞いを描くこの物語の大きな軸になっていくのだろう。それより以前に、雨でTシャツを濡らし、透けブラを登場させる競技が、スポーツか否かが問われそうだけれど。

 陽太の雨乞い部の先輩で、親が柔道の師範で長女は美人柔道家という尾鷲瞳が、100キロはゆうにあろうかという巨体を震わせ、雨乞いに挑む姿は、純真さ真っ直ぐさという意味では青春かもしれないけれど、ビジュアル面ではなかなかに厳しいところ。とはいえ姉がそうなら妹も、そうなる可能性があるとも想像されなくもない。

 今は巨体ゆえに陽太の眼中から追いやられている尾鷲先輩が一念発起、全身の水分を絞り出して雨を降らせた結果、現れる美少女が嵐を巻き起こすような話も、あるとしたら読んでみたい。ともに関西で開かれる全国大会へと、関東から挑むライバル校の雨乞い部員たちや、全国大会で新たに出会う雨乞いに長けた若者たちの多彩なキャラクターと、それぞれに繰り出す技の応酬も楽しみだ。

 それよりこれがスポーツならば、高校の部活以外に行われているだろう大学でのユニバーシアードとしての戦いや、プロとして繰り広げられる雨乞いといったものもあるのでは、といった想像も浮かぶ。ライトノベルで出す関係で高校生を主人公にしたのだとしたら、一般層を相手に大学生から大人も含めた雨乞い戦士たちの姿を描き、活躍を描くような物語があって悪くはない。

 もし出たなら、それこそ万城目学の「鴨川ホルモー」のように、広くは知られていないけれども、あるかもしれない不思議な活動に青春をぶつけ、体力と知力をぶつける者たちの物語として、広く受け入れられそう。高校生とは違って立派に育ったその胸板を、雨によって透けさせるシーンは是非に読んでみたいし、願うなら映画にもなって欲しい。期待したい。雲に願っても期待したい。


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