愛とカルシウム

 愛されてばかりいて、愛することを知らずに育つ哀しさを考えよう。愛されることを当たり前のように感じて、愛することの大変さにに気付かないまま生きる虚ろさを知ろう。愛されて、愛してそして生まれる前向きな気持ち。木村航の「愛とカルシウム」(双葉社、1500円)を読めば、誰もがそんな感情に気付かされるだろう。

 ハンプティ・ダンプティ・シンドローム、という病気が本当にあるのかどうかは謎めいてはいるけれど、主人公の環は子供の頃からそんなカルシウムが体表へと出てしまう病気に罹っていて、体の骨がとても弱く、けれども骨折しようものならギプスで固められている間に、表皮がカサカサになり、石化して動かなくなってしまう苦労を味わっていた。

 まず歩けなくなって、養生のために入った病院兼教育施設でも、子供の頃にだっこされて落っことされた記憶が蘇ったのか、抱き上げられた時に暴れて手を痛め、そのまま石化してしまい、今は四肢では左手がかろうじて動くくらい。移った介護施設でほとんどねそべったまま、後戻りの効かない日々を送っている。

 とても明朗で、はきはきとしていて頭は良さげ。けれどもまだ19歳で、また年齢とはあまり関係なく不自由な体を持っていることへの複雑な意識があるようで、いずれどこかへ、というより自分で自ら選んで死んでしまいたいという願望を、心の奥に持ちながらもとりあえず表向きは、他人に世話はかけているけれど、それでも施しなんか受けているんじゃないといった矜持を持ちつつ、1日1日を生きていた。

 そこに闖入者。巣から落とされ、瀕死の雀を見つけた環は、自分で雀を育ててみようと思い立った。手足も動かせないし、エサだってやれない、というか自分で食事だって満足にとれないという雀以上に不自由な環が、果たして子雀なんて育てられるのかと周囲は心配し、困惑した。

 けれども、頑固に雀を囲い、育てようとする環。周囲からは反発もあれば理解もあったけれど、誰かに預けるなんて事はしないで、自分で育てる道を選んだ。こうして始まった物語では、身体が不自由な人をめぐった介護や医療の問題が指摘され、効率化の名の下に切り捨てられる福祉の実態が明るみに出されたりして、いろいろと考えさせられる。

 また、いかんともしがたい境遇にある人たちが、何を考えどう日々を生きているんだろうか、といったことが描かれていて、これまたそういうものなのかと考えさせられる。というより、どうしてそこまでリアルに被介護者たちの世界を描いて見せられるんだろうかと、誰もが思わずにはいいられない。

 ともすれば悲劇的な描写があって、落涙を煽るような展開があって、情動を刺激されるだろうシチュエーションであるにも関わらず、そうした上から目線の同情なんてまっぴら御免とばかりに、日々をしっかり生きている人たちの姿が描かれていて、どうしてそんな心境を描き得るんだろうか、といった思いを抱かされる。

 同情すれば拒絶されそうで、かといって放ってはおけない人たちに、イーブンだと接してもどこか足下が浮つくし、ビジネスライクと言うのも、やっぱりどこかにひっかかりが出る。そんな時に、関係を円滑にして、結びつきを柔らかくするような心理が、やはり「愛」ということになるのだろう。

 それは恋情とか劣情といったものとは違った、つながりを前向きに考えるような心理といったニュアンスでの「愛」で、だから受け取るばかりではなく、与えることも大切になって来る。

 生まれながらにして病気で、長く世話になってばかりの環は、受け取る方にばかり気持ちが向いていて、それが当然となっていて、だから心に痛みも生まれた。母親との関係にも、いつしかぎこちないものが入り込んで、そのまま固まってしまおうとしていた。雀に注ぐ前向きの感情を育ませたことで、周囲に向かって何かを求め、そして与える気持ちの意味に気がついた。

 こんな解釈が正しいのかどうかも、ひたすらに健康なまま生きてきた人間にとっては分からないことで、介護され続ける気持ちに生まれる様々な感情については、ひたすらに想像するしかない。それでも、読み終えれば健常者であってもそうでない人でも、生きられるなら生きていこうという気持ちなれる。雀だって生きてるのに人間が、とでも言うべきか。

 方言も交じって快調なリズムで語られ明るさの中に、厳しさも見え隠れする一編。誰がどう読み何を思うのか。社会に、政治に、人々に広く問いかけ帰ってくる言葉と、そして思いを伺ってみたくなる。傑作。


積ん読パラダイスへ戻る