クォンタムデビルサーガ
アバタールチューナー

 『戦うことを本能として持つ存在なら、仲間が倒れようとも悼まず、己の死も厭わないで戦い続ける。人間にも戦う本能はあるが、一方に心というものがあって、死への恐怖を抱かせ、仲間への慈しみも持たせる。知恵もあって戦いを避けよう努力もさせる。そんな人間に戦いを強制し、倒した相手を喰らうことまで求めたら、人間はどう振る舞うのか? 生まれるだろう様々な葛藤が、五代ゆうの新シリーズ「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナーI」(ハヤカワ文庫JA)に示される』

 『幾つかあるチームが、リーダーの絶対的な支持の下で、ゲームのように殺し合っている世界。そこに突然のルール変更が行われ、メンバーたちに異能の力と、恐怖や信頼といった感情が与えられ、自動的だった戦いの様相を変えてしまった。倒した相手を食わなければ怪物と化し、滅びてしまうルールも加えられ、メンバーたちは共食いのおぞましさを抱えながら、悲惨な戦いから抜け出る道を求めてあがく』

 『舞台がリアルな近未来か、ゲームのような仮想世界か、天国煉獄地獄と重なる宗教的が観念世界なのかがまだ見えず、明かされる謎を楽しみながら、全5巻でつづられる戦いの行方を見守りたい』。

 2011年3月11日午後4時43分、SFマガジンに向け、第1巻のレビューを送信してから7カ月。書き次がれてきたシリーズが、言葉どおりに第5巻となる「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナーV」で完結した。明らかになった物語から見えたのは、予想したとおりにゲームのような仮想世界の存在であり、なおかつリアルな近未来であっただけでなく、天国煉獄地獄といった観念を、無量大数の彼方へと押し広げて感じ取れる、宗教的な尊厳さを持った世界観でもあった。

 どれかひとつならいざしらず、あるいはふたつまでならまだしも、3つの想像をひとつに包含し、広がるふくらんだものになると、第1巻を読み終えてどうして予想できただろうか。浮かぶのはひたすらの驚愕と呆然。そして、それ以上に歓喜と勇躍をもたらされる物語として、「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー」は、強く脳裏に刻まれ、歴史に記されていくことだろう。

 最初に描かれたジャンクヤードでの戦いは、ただの戦闘機械たちに意識が芽生え、仲間という概念、それを食らうという恐怖の意識が育まれていき、そこに生きる者たちに恐慌をもたらした。生き延びたい。勝ち取りたい。そんな意識の発露の果てに、ジャンクヤードは激しい戦いの場と化し、崩壊を迎えそして、物語はいったん、地上へと移る。

 そこでは、過去に起こった神との対話への挑戦と、失敗のドラマが語られ、ジャンクヤードというフィールドの真相が明かされた。さらに、天空よりもたらされる滅びの日。暗黒となった太陽の光を浴びて人間は結晶化し、崩れ去っていく。

 もはや人類は滅びるだけなのか。絶望にあえぐ人々の間に、かつてジャンクヤードで育まれた知性が、生命が現れ悪魔のような強靱な肉体を得て、文字通りに悪魔とも誹られそうな性質を持って立ち振る舞いながらも、その信念、すなわちセラフィータという名の少女をを救い、人類までをも救おうとする目的のために力をふるい、命すら賭す。

 明らかになった神という存在の正体。判明した肉体が結晶化するキュヴィエ症候群の真相。果てにあったのは、宇宙にとってのひとつの調和だったかもしれない。けれどもそれは、人類にとっての平穏とはほど遠いものだった。だからあがこうとした。けれども届かなかったとき、人類は導きを得た。それがジャンクヤードで生まれたトライブ<エンブリオ>の面々だった。

 サーフ、ヒート、ゲイル、アルジラ、シロエの5人と、彼らに知性と意識をもたらしたセラを加えたチームが、人類を見捨てず、虐げられても膿まずにひとつのことにむかって疾走する。時に反目しあい、喰らいあうように見えた彼ら、彼女たちの中にあったひとつの願いがかなった果てに、人は未来を得る。

 2011年3月11日を挟んで描き次がれた物語の構想段階に、どこまでの意図があったのかは分からない。それよりはるか以前、ゲームのために紡がれた企画の段階ではなおのこと、どこまでの意識をもって滅び行く人類の恐慌と、そこにもたらされる強い意志、仲間を思い、未来を開き、運命をその手によってつかみ取ろうとうする生命のあがきが、構想されていたのかは伺い知れない。

 けれども、3月11日という文明への継承がならされた事象を経て、また世界で繰り広げられる金融の混乱、民族の諍いを経た上で、物語から受ける読み手の意識は変化した。生きるには。生き延びるために必要なのは。そのために必要な何かを探る意識を、読み手も抱き世界も求めるようになっている。

 光瀬龍が書き、萩尾望都が描いた「百億の昼と千億の夜」であしゅらおうは、人類より高次の存在を知り、そして戻った地表で、56億7000万年の後に来る衰退した世界に、ひとり佇み沈思した。諸星大二郎の「暗黒神話」で山門武は、宇宙を統べる存在へと近づいたものの、やはり戻った56億7000万年後の地表で、半跏思惟の姿でひとり黙考した。

 ともに孤独に迎えた審判の時。人類は果たしてどうなったのだろうと想像して浮かぶ寂寥感に、未来を切りひらく難しさ、永遠など存在しない無常観にしばし呆然として宙を見た。

 滅びへと迫る人類にもはや救いはないのか。神も悪魔もいないのか。違う、断じて違うと五代ゆうの「クォンタムデビルサーガ・アバタールチューナー」(ハヤカワ文庫JA)が語りかける。サーフが、ヒートが、ゲイルが、アルジラが、シロエが、そしてセラが願い繋げた未来の世界には、は孤独に佇むあしゅらおうも、黙する山門武もいない。しっかりとした今日がそこにあり、そこから連なる明日がある。そう見える。

 だから学びたい。神も悪魔もその内に包含しながら、より高みを目指す道を。人類が心すべき事柄を。その為の方策が、「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー」には記されている。

 神によって下されようとした審判を跳ね返し、人類に未来をもたらしたサーフら<エンブリオ>のメンバーたち。神の目をかいくぐるようにしてジャンクヤードで育まれた彼らが、そこで得た知性と、そして意識をコアにして未来への礎となった。その仕掛けを果たして誰が作ったのか。何者がそれを画策したのか。神だったのか。違う。神は堕ち、戻ろうとあがき、人類を見放した。ならば神ではなかったのか。

 言えることは、神すらもさらなる高次の下に生かされ、許されている存在に過ぎない。そんな世界、そんな宇宙、そんな存在そのものを律し調べていく流れのなかにあって、人類は、ただ流れに身を任せていては滅びるだけだ。自立し、意識して己を得て、そして歩むしかない。未来のために。それだけが、あらゆる意識をも超越して思いを貫く。


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