1Q84 BOOK1&BOOK2

 21世紀の日本で最も話題になった本。驚異的なベストセラー。時代をえぐるサスペンスにして時空を越えたラブストーリー。村上春樹の「1Q84」(新潮社、BOOK1・BOOK2各1800円)について語られる時、そうした惹句が真っ先に飛び出てくる。

 カルト集団への思い。真っ当な人間が引き込まれ、翻弄される恐怖。描かれているモチーフも多彩で豊富。ひとつひとつの表象を長め、真相を探ってくことで百科事典に匹敵する読み応えを得られる。

 青豆という女性がいる。首都高速の途中で、仕事に遅れそうだからと渋滞のタクシーを降り、脇のフェンスを衆目も気にしないでスカート姿で乗り越え、非常階段を下りた先にあった世界で前とは違った事象に出会い、それでも前と同じような仕事に勤しむ。

 その仕事は彼女に似つかわしくないもの。あるいは似合いすぎたもの。止むに止まれない事情から磨かれたその技能を、とある年老いた女性に寄せられる女性たちの嘆きを晴らすために使っている。

 天吾という男性もいる。作家になろうとしてなり切れず、予備校の講師をしながらライター仕事をしていたところに、ずば抜けた新人の投稿を受け、敏腕編集者に頼まれ書き直して世に送り出す役割を果たす。

 「空気さなぎ」と名付けられた作品は大評判となるものの、書いた「ふかえり」という名の少女は、かつて所属していたカルト集団にまつわるエピソードを暴露した疑いから、謎めいた存在に追われるようになる。

 やがて青豆に、カルト集団の長に接触する仕事が舞い込む。天吾は幼い頃に出会い、別れても気になり続ける青豆のことを強く思い出すようになる。絡み合う2人の人生を交互に描く物語から、スターを送り出そうとする出版界の問題、カルト教団が知らない間に出来上がって勢力を持ち始める問題、ドメスティックバイオレンスの問題、罪には死をもってあがなわせても構わないという思想に染まった人々が存在する問題等々、現代にも漂う問題が提示されて、どう向かい合うべきなのかを考えさせる。

 とても分かりやすい物語。暗喩的なものは多々あっても、それぞれに意味があって役割を与えられているため、迷うことはない。お互いがお互いを気にしながら、そして近くにいながらすれ違ってしまう青豆と天吾の人生の悲運に嘆き、そして闇へと向かいそうな人々に、どうにか踏みとどまって欲しいと願いたくなる。だが……。

 1984年なのだろうか、という思いがまず浮かぶ。1984年が舞台になっている村上春樹の「1Q84」。そこにはチェッカーズのような流行歌も、ロサンゼルス五輪のようなスポーツも、グリコ・森永事件のような大事件も出てこない。デザイナーズブランドのようなファッションも、クレスタやソアラといったラグジュアリーカーも、デザートやヘアスタイルといった風俗の類も何も出てこない。「空気さなぎ」以外のベストセラーについても。

 一切の時代性が省かれた世界。かろうじて出てくる音楽はジャズくらいで、時代とは関係性を持っていないし、バーで飲まれるのはカティサークのような、高級とは今ではいい難いウィスキーに、トム・コリンズのような通俗性を帯びたカクテルといった具合。そこに時代を反映させるようなスノッブさはない。気取りもない。

 あるいは25年の昔には、これらが何かしかスノッブの象徴として描かれていたのかもしれない。物語の中に描くことによって今の時代の最先端を描いていると賞賛されていたのかもしれない。その感性を今に引きずって、時代からズレてしまったことを書いているのか。それとも「ノルウェイの森」の前夜、「羊をめぐる冒険」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で世に存在を示しつつあった当時の、作品に散りばめて感性の鋭い人たちから反応を得たスノッブを思い出して、ここに再び現出させてみせたのか。

 固有名詞を出さなくても、カティサークがジョニ黒でも構わず、トム・コリンズがソルティ・ドッグでも関係無しに進んでいくシーンで、敢えて持ち出されるこれらをどう解釈すべきなのか。気にしない。意味などない。そう考えるのが1番なのかもしれない。

 むしろ、1984年の当時にようやく立ち上がったばかりの、オウム真理教的なカルト集団を描いてみせたりするあたりに、時代性をそこに込めるのとは違った、別の目的がこの小説にはあるのだろうということが浮かび上がる。

 1984年の当時に、とりたってクローズアップされた訳ではない、それ以前かもそれ以後もいろいろと話題にはなっているヤマギシ会のようなコミューンを持ち出していたりするところにも、時代に何かを象徴させるのではなく、人間に普遍の問題を、そこに現出させて指摘しようとした物語なのだろうという想像が浮かぶ。

 ジョージ・オーウェルが「1984」に象徴的に描いた、ビッグ・ブラザーという独裁的な個人によってあらゆる物事が管理され、監視されている社会なんて、もはや誰にも分かりやすすぎて、起こ裡得ることはない。むしろ問題は、ビッグ・ブラザーへの対比として持ち出されているような、リトル・ピープルなる存在によって動かされ、支配され、絡め取られていることなのだ。と、オーウェルの「1984」を踏み台にすることで、語ろうとしたのかもしれない。

 リトル・ピープルとは何なのか。他愛のない個々人のささいな意識が、方向性を持ち絡み合った中から生まれる群衆意志のようなもの。誰が責任を負うのではなく、誰もが無責任なのに、誰にでも影響を及ぼし世界を動かす力のようなもの。ネットが生まれて、形としてやや顕在化したところもあるそうした集合意識によって知らず導かれ、知らず取り返しの付かない場所へと誘われているかもしれない奇妙な感じ。それこそがリトル・ピープルなのだと果たして言い表したかったのか。それともまったく違うのか。

 完結しているようで投げ出されたいる感もある「BOOK2」の後に続くだろう、完結の物語の先に現れるメッセージが待たれる。そんなものはないのかもしれないし、あるのかもしれない。ただひとついえること、それは世間に投げかけられた「1Q84」の物語に大勢が触れ、それぞれがリトル・ピープルに感じた畏れを無為にしないこと。芽生えた情動を巧みに誘い、毛並みのようにひとつの方向へと流してやがて、そこに巨大なうねりをもたらすような空気から、徹底的に逃げるのだ。

 すでにしてこの21世紀後で最大のベストセラーを手にとってしまった時点で、うねりに呑まれてしまっているのかもしれないが。


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