1998年2月22日 主日礼拝式

聖書マルコの福音書  14章32節〜39節  「主よ。なぜ私のために」

池田 登喜子牧師 宣教メッセージ



それでは、今朝のメッセージのみことばは、マルコの福音書の14章の32節から39節になります。新約聖書の89ページになります。お読み致します。

 32.ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」 
 33.そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。 
 34.そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい。」 
 35.それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 
 36.またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。 
 37.それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。 
 38.誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 
 39.イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。 

今朝は、主イエス様ご自身のお苦しみは誰かのためではなく、私のためだという事を共にみことばに聞きたいと思っています。

先程、お読みしました32節に目を留めていただきますと、これは主イエス様の十字架刑の前日のでき事で、主イエス様は、弟子たちと最後の晩餐を終えて、このゲツセマネの園に来ておられるのです。

少し話がそれますが、私たちはこの度、聖地旅行でこのゲツセマネの園に立たせていただきましたが、この園の片隅に巨大な1本のオリーブの古木が生えていて、その根元から芽を出し分かれた新しい木から、青々とした葉が生い茂っている光景に接しました。

ガイドから、生命力の強いオリーブの木はなかなか枯れる事を知らず、この木も樹齢が二千年以上という説明を聞いた私は、このオリーブの老木が、まだ若木だった二千年前に、32節が語るこのゲツセマネの園に立っておられた主イエス様を思い浮かべ、あぁ、この園だったのか、主イエス様が十字架で血を流されたのはここだったのかと、遥か時間を超えて主イエス様をとても身近に、肌で感じられました。

主イエス様は34節で次のように祈っておられます。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」そして、33節「イエスは深く恐れもだえ始められた。」このように深く恐れ、もだえながら祈っておられる。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」絶体絶命の窮地を迎えようとしておられる主イエス様。最後の晩餐が終わって、父なる神に祈るためにこのゲツセマネの園に来られた主イエス様が祈っておられる様子が分ります。

そして、35節、「イエスは地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と祈られ、更に、36節「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」「お父さん、あなたには何事でもできないことはないお方です。ですから、どうぞお願いです。この杯を私から取りのけてください。」と祈っておられるのです。

大分、以前の事ですが、青年たちとこの箇所の聖書通読をしていた時、その青年たちの中から、「先生、主イエス様は十字架を前にして気が弱くなられたのですか。」とか、あるいは「死に対する恐れから、脅(おび)えておられるのですか。」といった率直な質問を受けた事があります。確かにこの箇所は一見すれば、そのようにも読み取る事もできるのですが、この事に関して、実は、イスラエル旅行の一つのあかしをさせていただきたいと思うのです。

私たちのツアーをガイドしてくださった、アメリカ人と結婚しエレサレムに住むスチーブ・栄子さんという方のお話しです。この方はガイドという職業柄、幾度も、このゲツセマネの園を訪れておられるのですが、ある時「私は開かれました。」と次のようなお話しをしてくださいました。

このような深い悶えと、悲しみの中で「この杯を私から取り去ってください。」と祈っておられた主イエス様は、その杯の中に何を御覧になったのでしょう。主イエス様は十字架に架けられた自分の御姿を御覧になったのでしょうか。でも、ヨハネの12章の27節を見ますとそうではない事が解ります。27.今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

「私は十字架に架かるために来たのだ。」と主イエス様は言われているのです。ですから、この杯の中、この時を過ぎ去らせてくださいと祈られた、その杯の中に十字架が入っていたから、深い苦しみの中で悶えられたのではありません。それでは、何故、主イエス様は「この杯を私から取り去ってください。」と祈られたのでしょうか。一体、主イエス様はこの杯の中で何を御覧になったのでしょうか。

ガイドの栄子先生は、先程お話しましたように、ガイドで幾度もこのゲツセマネの園を訪れているのですが、ある時、その杯の中をはっきりと見せられたというのです。その杯一杯に満ちているものの正体は、汚いドロドロとした自分の罪だったと言われるのです。ゲツセマネで主イエス様が呑み難い杯を前にして、苦しみ悶えられたのは、汚(けが)れ果てた醜悪な私の罪を呑み干すためのもがきだったのです。何故なら、神様にとって最も忌み嫌われるものは罪だからです。

その汚れ果て、醜悪な自分の罪が杯の中に満ち溢れていたという事を、メッセージで聞いたり、本で読んで頭の中で理解し納得したのではなく、自分の身体で理解し、体得されたのです。そして、「皆さん、私の罪というものはどんな汚いものか。神が裁かれ、刑罰をくださなければならないような、主イエス様でも呑み干す事を本当に躊躇(ちゅうちょ)され、苦しみもがかれたようなものなのです。」と語っておられました。

「今のトイレは水洗式ですが、自分の育った日本の田舎では、いわゆる、汲み取り式の便所でした。」"そうです、私の育った沖縄でもそうでした。そして、実際、その汲み取りもしました。"、と私は少女時代を思い浮かべながら聞いていました。

「その汲み取り式の便所の便器の底に溜まった糞便の表面は、無数のウジムシが上になり、下になり蠢(うごめ)いていました。私の罪とはそのように醜悪でおぞましいもの、汚(けが)れた汚い、ウジムシ一匹では無い、無数の罪というウジムシが絡(から)みあい蠢(うごめ)いているものです。

その杯を主イエス様は呑もうとしておられる。杯の中身を呑み干すという事は、ご自分の身にその罪を負う事であり、自分自身を罪とする事なのです。罪の恐るべき裁きと、呪いをご自分の身に真っ正面から受ける事を意味しているのです。」

皆さん、ここで罪とは何かという事を考えてみたいと思うのですが、聖書によると「神様の聖なる御心に背く事は悉(ことごと)く罪だ。」とし、ローマ書の1章の28節から32節に、その内容を具体的に次のように列挙しています。

 28.また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 
 29.彼らは、あらゆる不義と悪とをむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 
 30.そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 
 31.わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 
 32.彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけではなく、それを行なう者に心から同意しているのです。 

そして2章では、人を裁いている貴方も同じ事を行なっているではありませんか、貴方も同じ罪を犯しているのだ、と続いて行くのです。私たち人間の置かれている現実の姿は、このように聖なる神の御心に背く生き方に流され、罪の中に生きているのです。

罪という事に対して、このローマ書の32節は「そのような事を行なえば、死罪に当たるという神の定めだ。」とあります。その、死罪に当たるというこの神の定めの前に、私たちは立ち得る者があるでしょうか。この罪の当てはまらない者がいるでしょうか。誰も立ち得ない。その中の一つ、例えば、同じくこのローマ書の28節に「彼らが神を知ろうとしたがらない。」とありますが、この神を知ろうとしない、神様の存在を信じようとしないという事に対して、私たち日本人は特に心しなければならないと思うのです。

この日本にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられてから約四百五十年、しかし、日本の民で「神様、主よ。」と礼拝をしているクリスチャンの数は、何と国民全体の1%にも満たないという事で、世界の不思議だとさえ言われています。何故、日本の人たちはイエス・キリストの事を聞きながら必要とせず、神が無くても生きて行けると思っているのでしょう。私たち日本人は世界中から不思議がられている民だそうです。

先週の14日の土曜日、この教会に見学のグループが訪れました。そのグループの中に奥さんが中国人の一組の宣教師夫妻がおられました。この中国人の奥さんは、戦時中、日本から受けた様々な迫害や、いろいろな事はイエス・キリストの名のもとにすべて赦し、元々、日本贔屓だった奥さんは、日本に来られて一生懸命に主イエス様を伝えられているのですが、この方が夜の青年の集会に出席されて泣かれたのですね。どうして泣かれたのか。

主イエス様の愛を、幾ら伝えても伝えても、神を認めようとぜず、神の愛を拒み続けて、私たちが幾ら話しても、もう聞きたくない、という神に対する頑(かたく)なな日本人の心、神を知ろうとしたがらない日本人の心を思う時、この身が捩(よじ)れる程苦しく、痛くて、どうしようも無く悲しいのです、と言って泣かれたそうです。

「神を知ろうとしない事は、死罪に当たる。」という神の定めがあるのに、何故、私たちの愛する同胞は神を求めなくなっているのでしょう。日本人は何故、神の必要を認めないのでしょう。実は、私たち人間は、本来、立つべき処、いるべき処からさ迷い出て、神様との正しい関係を捨ててしまっているのです。

イザヤ書の53篇の6節に、私たちの姿として、次のように記されています。ご一緒に読んで見ましょう。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行なった。」"私たちは、自分かってな道に向かって行なった。"神との正しい関係を断ち切ってしまった結果、私たちは神様を見失ってしまって、何事につけても、本来、神様がいるべき処に自分がいるようになっているのです。

先程も言いましたが、私たち人間は、本来、いるべき処からさ迷い出て、神様がいてくださるべき処に神様がおられないで、自分自身が神様に替わって居座っているのです。神様を見失って、何事にも自分中心になってしまっている処に罪の根源があるのです。自分が中心になって、神を認めようとしない処に罪の根源があるのです。

殺人を犯した少年が警察での取り調べで、「僕は何も悪い事などしていない。殺されるような事をしたアイツが悪いんだ。」と言って取り調べ官を愕然とさせたそうです。一体、人の心はどうなっているのでしょう。私を含め、自分中心のものの見方をし、自分の問題として受け止めようとはせず、責任を他に転嫁をしようとする現実。これは私の姿だな、と思うのです。何と醜い罪の姿が自分の中にある事かと本当に思わせられるのです。

ローマの3章の23節に次のように記されています。ご一緒にお読みしましょう。23.すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受ける事ができないという事は、リビングバイブルによると、神の輝かしい標準には程遠い存在となっている、という事だそうです。

すべての人の心の中には罪がある。すべての人が心の中で罪を犯してしまった。神の輝かしい標準、神がお造りになられた、私たちの標準。神が尊んで大切な自由意志を与えてくださいましたのに、その自由意志を私たちはこのように使った結果、自分で自分を罪に染めてしまって、神様の輝かしい標準には程遠い存在となってしまいました。これは神様の痛みです。

この罪が盛られ、罪に満ち溢れた杯が主イエス様の前にありました。主イエス様は苦しみの中で、激しく悶えながら、私たちの罪が一杯詰まった杯を呑み干されたのです。この時から主イエス様の姿が変わった事が分るのです。

マルコの14章と、15章にその事が記されていますが、ゲツセマネまでは主イエス様は病人を癒されました。ライ病人を癒し、足なえを立たせ、目の見えない人の目を開き、死人を蘇えしめ、そして嵐のガリラヤ湖で「風よ、静まれ。波よ、止まれ。」といって嵐を静められました。また、大群衆に対して、権威をもって神の国を語られました。

ゲツセマネの園で、すべての人類の罪の詰まった杯を苦しみ、もがいて呑み干されてからは、そのような神の子としての主イエス様のお姿は見られず、その時からマルコの14章65節と、同じマルコの15章34節に代表されるように、主イエス様は全ての罪を担われて、罪人として歩まれたお姿を見るのです。

最初に、マルコの14章の65節を見てみましょう。

 65.そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。 

この主イエス様のお姿は、罪人が受ける嘲り、軽蔑であり、さげすみなんですね。聖書の他の箇所では鞭で打たれています。それらは、罪を犯したのは私ですから、私が受けなければならない筈なのに、イエス・キリストが罪人となって受けてくださり、罪人として歩まれたのです。

集まった群衆の一人は、「貴方が神の子なら十字架から降りてみよ。」と十字架の足元から罵(ののし)り叫んだのです。主イエス様はご自分の力で十字架から降りる事がおできになったのですが、されなかったのです。もし、主イエス様が十字架から降りて神の子としてお歩きになっていたら、私たちに対する罪の赦しは永久に閉ざされ、私たちがその全ての苦しみと呪いを受けなければならなかったでしょう。でも、誰が立ち得たでしょう。人間では立てないから、主イエス様がそこに立ってくださったのです。

もう一つは、マルコの15章の34節です。34.そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それを訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

罪は神に捨てられ、罪人は神から捨てられなければなりません。主イエス様は本当にその罪を担われ、真の人間となってくださいました。ですから、罪を持ったまま神から捨てられた者としての死をここで味わわれたのです。罪の裁きは余りにも厳しい。「どうして私をお見捨てになられたのですか。」これは主イエス様が真の人間となられたため、罪を持ったまま神から捨てられた者として裁きを受ける苦しみ、痛みの極み、極限の叫びなのです。

皆さん、人間の方から神を捨てた時に、神を知ろうとしない、あるいは、神を求めようともせず、神に逆らい続け、「我に帰れと、ひねもす貴方がたに手を伸ばした。」とおっしゃるその神の手を振り切り、振り払って人間の方から神を捨てた時に、どのように厳しく、神から捨てられなければならないか。ここはそれを示しています。

集まった群衆の一人は、「貴方が神の子なら十字架から降りてみよ。」と罵り(ののし)り叫んだのです。主イエス様はご自分の力で十字架から降りる事がおできになったのですが、降りませんでした。主イエス様は真の人間、私たちと同じ人間となってくださり、私の罪を全部引き受けて、もし、十字架から降りたなら、人類に対する罪の赦しの道は永遠に閉ざされたままだったのですが、でも、その罪を全部背負って神に捨てられてくださいました。

捨てられるという事がどのようなものか、主イエス様はここで味わっておられるのです。私たちの心は罪のために鈍(にぶ)らされておりますから、神様から捨てられるという事がどんなに怖いものであるか、その現実がどんなに厳しいか、という事が本当に解らず、軽く見ているのです。でも、人間は誰もこの神の厳しい裁きの座に立つ事ができないのです。このような事を行なえば死罪に当たるという神の定めの前に、私たちはその死罪となる罪を平気な顔をして犯しているのです。私が受けなければならなかったゲツセマネのあの悶え、苦しみ。そしてカルバニーの呪いと死、その全てを主イエス様が私たちの身代わりとなって受けてくださったのです。

ローマの6章の23節に、「罪から来る報酬は死です。」とあります。でも、私たち人間には耐えられない厳しいこの死の裁き。ですから、神は罪を知らない主イエス様を私たちの替わりに罪とされたのです。それは私たちがこの主イエス様に会って神の義となるためなのです。誰も受ける事が不可能な罪の裁きを主イエス様が受けてくださったのです。

もし、貴方が今、何か問題にあって苦しみに直面して悶えているならば、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と苦しみの窮(きわ)みから神様に問い続けられた主イエス様を思い起こしてください。私たちは苦しみにあう時に、何故、神様は私たちをこんな苦しい目にあわされるのだろう、どうしてこんな事が私たちに起こるのだろう、と私たちは何時でも自分の苦しみを誰かに訴え、その時は神様を第三者として語っています。神はどうして私にこんな事を、と。

でも主イエス様は苦しみの窮(きわ)みから、神に問い続けておられるのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」神に問い続けているのです。私たちが苦しみに悶え、誰かにその苦しみを訴える時、神様ご自身を第三者として語ったり、つぶやいたりすると神様を経験する事ができないのです。人に訴えるよりも神様に訴え、祈るという事なのです。

何故、祈りは大切なのでしょう。神に祈る時に、神は三人称にならないからです。主よ、どうして、私はこのような苦しみにあうのでしょうか。主イエス様、この苦しみを何とかしてください、と神様に訴える。私たちよりもっと深い処で罪人として、神に捨てられた者の苦しみを味わっておられる主イエス様、極限の中からも神に叫ばれた主イエス様は、私たちにおっしゃるのです。私は貴方が苦しんでいる事を知っている。でも、もう貴方は私ほど苦しまなくても良いのだよ。私が苦しんだから貴方はもうそれ程苦しまなくても良いのですよと言っておられるんですね。

私たちが裁かれなくても良いように、主イエス様が裁かれてくださいました。木に架かる者は呪われた者であると聖書にありますが、十字架に架けられた主イエス様は私たちの呪いをご自分の身に負われ、呪われてくださいました。ですから、私たちは呪いから解放されているのです。主イエス様は何故、私たちのためにここまでしてくださるのでしょうか。

貴方を愛しているからだよ、と神はおっしゃるのですね。私が貴方を愛しているから私たちを本当に幸せにするために、ご自分が犠牲を払われる。そのような愛をもって、「私は限り無き愛をもって貴方を愛している。」とおっしゃってくださっています。主は私たちを徹底的に愛し、赦してくださるお方です。この方の前に来て荷を下ろし、神に問い、そして、神ご自身を深く体験させていただきたいと思うのです。

最後にみことばを読んでお祈りをしましょう。第一ヨハネの4章の9節と10節です。

9.神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10.私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

お祈りしましょう。天のお父様。主イエス様が、何故、私のためにあのゲツセマネの痛みと苦しみを、何故、カルガリーでのあの呪いの十字架をお受けになってくださったのでしょう。「見よ。私は限りなき愛をもって貴方を愛している。」主が私たちを愛してくださったために、主は私たちに替わって、罪の身代わりとなり、永遠の祝福を与えてくださいました。感謝します。

神の愛とは、私たちが本当に幸せになるためにご自分を犠牲になさる愛でした。主イエス様の犠牲を感謝致します。そして、これらの罪の贖いを全うし、勝ち得て貴方ご自身が三日目に蘇ってくださいましたイエス・キリストの、この素晴らしい蘇りのみ力を感謝します。私たちの罪の贖いは完成されました。感謝します。ですから、神様、どうぞ、お一人、お一人に、本当に私たちに真の自由と喜びと感謝と希望を、常に主よ、満ち溢れしめてくださいますように。

キリスト・主イエス様の御名によってお祈りを致します。