2003年2月2日 主日礼拝 
エレミヤ書32:1〜5、33:1

この街を福音で満たす。(4)

池田 博師 宣教メッセージ

今日のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝『この街を福音で満たす。(4)』になっております、エレミヤ書の32章1〜5節、33;1、旧約聖書1196ページになります。ここをお開き下さるようにお願い致します。

エレミヤ書
32:1 ユダの王ゼデキヤの第十年、すなわち、ネブカデレザルの第十八年に、主からエレミヤにあったみことば。
32:2 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた。
32:3 彼が監禁されたのは、ユダの王ゼデキヤがエレミヤに、「なぜ、あなたは預言をするのか。」と尋ねたとき、エレミヤが次のように答えたからである。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。
32:4 ユダの王ゼデキヤは、カルデヤ人の手からのがれることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、彼と口と口で語り、目と目で、彼を見る。
32:5 彼はまた、ゼデキヤをバビロンへ連れて行く。それでゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいる。−主の御告げ。−あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない。』
33:1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。

はい、聖書は以上であります。今読んだ所で分かります様に、今年のみ言葉、素晴らしいみ言葉が与えられております。このみ言葉がどう言う所で語られたのかと、その事を今日は少し見てまいりたいと思います。その事を思っていた時に私は何故か、東京大空襲の事を思いだしました。ちなみに今は便利ですね。探索してみたら、東京大空襲の本があって、実に14ページにわたって色んな事が書いてあって、感謝したのでありますが、私自身でありますけれども、私は昭和20年のその頃、世田谷に住んで居りまして、で例の大空襲の時、9日の晩から10の朝。私はこの目でこの恐ろしい姿を見たのでありました。

それから間もなく、どうしてそこに行ったかは覚えて居ないのですけれども、東京駅からずーっと下町の方に歩いた記憶があるのです。そうしますと、そこが、もう本当に焦土化していると言いますか、焼け野原になっていて、そしてぼろをまとった人達が町を歩いている。何か食べ物を探しているでしょうか、何処に行っていいか分からないでさまよっていたでしょうか。そう言う姿を見た時に、何か東京と言う町はやがて滅びてしまう。消えてしまうであろうか、という。私はその時未だ8才であったんですけれども、子供心に、恐ろしさと、過去永遠この町がなくなってしまうのではないだろうかと言う恐怖にかられた。そう言う記憶が残っているんですね。

ちなみに、これで見ましたら、その晩、B−29、昔を知っている人は恐れる訳ですが、そのB−29が約350機やって来て、2時間半にわたって、大空襲でもって、東京の下町、江東、墨田、台東あたりが中心になって、そして、約2千トン、十万発の焼夷弾が落とされて、そして焼かれてしまった。で焼け死んだ人は約十万人という資料が残っておりましたけれど、本当に正に生き地獄のような状況でした。そして、今度は世田谷をみたら、本当に東京の真ん中を見たら、本当に何か地獄絵巻を見たように、頭に焼き付いていた訳であります。

でも、そんなのは、全くその跡形もなく復興しているわけでありますけれども、やがて、復興すると言う、その恵みもあるわけであります。今日の み言葉のエレミヤの時代にエルサレムと言う町は、正にあの焦土化した東京と同じような状況にあったと言う事であります。

その当時大国バビロンがあり、そして、回りの国々を占領し、そして、今エルサレム、ユダに迫ろうとして、包囲網がずっと囲まれて、今日あるイスラエルがエルサレムが、そう言う中に置かれていた、と言う事であります。そう言う中でエレミヤは、神様の預言を聞いていく訳でありますけれども、その預言が、ずっと語られて居る訳であります。今見ました32章を見ますと、その当時の王ゼデキヤに語られています。そして、エルサレムが占領される。同時にゼデキヤも捕らえられて、そして、やがてバビロンに連れて行かれる、と言う預言をする訳です。

誰しもそうかも知れませんけれども、ゼデキヤは否定していましたね。信じていなかった。ですから、そう言う預言をするエレミヤに対して物凄い怒りを発して、「おまえは私に味方しないで、何と敵国バビロンに味方して、バビロン王を擁護するような預言をしている」と言って、そして、エレミヤを捕らえて、牢にぶち込んで、監視させながらいた、と言う状況がここに書かれているわけであります。そして、この先、見ていきますと、神様の預言は必ず成就するわけであります。39章を見ていきますと2節に「ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、町は破られた。」とあります。

エルサレムが遂にバビロンによって占領されて行くわけであります。39章4節をみますと、 「ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、王の園の道伝いに、二重の城壁の間の門を通って町を出、アラバへの道に出た。」しかし、カルデヤの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえて、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカデレザルの許(もと)に連れ上って、そこて゛王は宣告を下した。とあります。

そしてさらに見ていきますと、バビロンの王は、リブラでゼデキヤの子達をその目の前で虐殺し、またユダの主だった人々も皆虐殺し、そして、39章7節「ゼデキヤの両眼をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンに連れて行った。」そして更に39章8節「カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。」とあります。この様にしてイスラエルは崩壊し、ゼデキヤはエレミヤが預言した通りに捕らえられていき、無惨にも、子供達が目の前で虐殺され、自分も両眼がえぐりだされると言うこの上ない残酷な仕方でもって彼は捕らえ移されていく、と言う事であります。そこには、最早なんの一片の希望もない、絶望の淵、どん底におとしめられた姿かあるのみであります。

しかし、神様はそう言う絶望の姿を目の前にして、語って下さっているのが、33章の約束なのです。で改めて33章に目を留め、2〜3節をもう一度見てみますと「33:2 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。 33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」そして33章9節「この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」とこうあるわけですね。

で改めて今年来年に与えられたこの教会の標語としてのこ言葉、「この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」と言うこのみ言葉が何か、こう浮き彫りにされて来る。あるいはそこにあるみ言葉をもう一度聞き直す、必要があるだろうか。とそんな思いで静まっておりました。そして、私はここから今日2つの事、私自身に語られた事を皆さんにお分かちして、共にそして、主の御前に皆さん1人1人、主の御声を聞いて頂きたいなぁ、そう言うふうに思いました。

その1つ、それはエレミヤと言う預言者、このエレミヤと言う預言者を通して、私たち1人1人への主の声をそこから聞いて行きたいと思いました。エレミヤはその当時イスラエル国が神の民であった筈であるにも拘わらず、多くの人々、殆どの人々は、神から離れていました。いや神に背を向けていた、もっと言えば神に敵対していた。そして、更には他の神々、偶像すら拝んでいた。と言う事が分かります。1章16節を見て見ますと、「しかし、わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ。」とこうある。自分で造った物を神として拝んでいる。そう言う多くの人々がいる。偶像に走っている、だから私は彼らを裁くと神は言っておられる。

そう言う神から離れて、背を向けて、偶像も拝んでいる人々の中で1人エレミヤは神に従っていました。神を神として、神の御声にのみ聞き従おうとしていた、と言う事であります。この朝皆さんお1人お1人はどうでしょうか。家族の中でたった1人のクリスチャンであるでしょうか、回りに誰もクリスチャンが居ないという環境に置かれているでしょうか。しかも人々はあなたがクリスチャンであると言う事に対して、色んな意味で迫害と言ったらいいでしょうか。何か信仰を持っていると言う事に対して、差別や冷ややかな目や、あるいは面と向かって中傷される、と言うような事があるでしょうか、家族の中でも、クリスチャンのくせに、何、そのやってることは、みたいな。そんなふうに言われたりすると言う事はないでしょうか。

寧ろ私がクリスチャンになった事が、神様を知った事がこんなに辛いんだったら、知らない方が良かった、信じない方が良かった。クリスチャンにならない方が良かった。その方が平和ではなかったではないか。と思われる様な状況。エレミヤは正にその通りでした。捕らえられて、牢にぶち込まれて、そして、泥沼の中に今にも死にそうな状況にあります。でもエレミヤは神様を捨てなかった。神様を離れなかった。神様を信頼したと言う事であります。大事な事、私たちは一度神様を知った以上、神様に立ち帰った以上、私の主として神様を信じた以上、それを貫いて行くかがどんなに大切かを、このエレミヤを通して、改めて心に感じたのであります。

皆さんも、置かれた状況で、その状況から、問題から、色んな事を考えた時に、相対化して考えたならば、何かクリスチャンになっ事が何1つプラスになっていないように見える現状と言うものがあります。でも、捨ててはならない、離れてはならない。エレミヤを通して改めて感じるんですね。で先程1章16節を読んだのですが、17節に神様はエレミヤをこう言うふうに励まします。「さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。(一寸厳しいですが、)さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。」これは単なる脅しではなくて、矢張りエレミヤにしっかり立って信じた以上それを貫く様にと言う事を励ましている言葉であるとそう受け止めます。

そして、更に1章19節を見ますとこうあります。「だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、−主の御告げ。−あなたを救い出すからだ。」とこうあります。主はエレミヤがどんな極限的な状況の中に、たとえ置かれたとしても、四面楚歌、もう抜け出す道がない中に置かれたとしても、でも彼らはあなたに勝てない、と主は言って下さる。そして、更にあなたを私が救い出すからだ、と言って下さっているのですねえ。確かなお方、全能なお方、全知なお方が、こう言って下さる。これ程の素晴らしい約束はありません。エレミヤに語って下さった主は、また私たち1人1人にも語って下さる。そう信じるんですね。エレミヤが従った様に、私たちも主に従い通す事の大切さを、まず心に留めたいですね。

それから、もう1点は、このエルサレムの町と言う事ですね。このエルサレムの町は約束の様に「この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」こう言って下さっているわけですが、「神の愛」がもう焦土と化している、そう言うエルサレム。でも、そのエルサレムに御計画をもっていて下さると言う事ですね。しかし、その御計画はただ1人神様に従ったエレミヤに語っている。ここにこう言う約束があるんですけど、こう言うふうに言われているんですね。別の所で、25章と29章に語っているんですね。29章の10節の言葉に目を留めたいのです。ここに主はエレミヤを通してエルサレムについて、語っています。

29:10 まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」こう約束しているんですね。

「エルサレムがやがて、喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」とあるその具体的実現は、一度確かにバビロンに滅ぼされる窮地、絶望の淵に立たされてしまうのでありますけれども、でもやがて、70年が経ったなら、そのエルサレムは回復し、そのエルサレムは栄える。とこう言う約束している下さると言う事であります。ここではやがてクロス王を立て、エルサレムが回復して行くと言う歴史が展開していくわけであります。

そして、今日もう1つの点として覚えたい事、それはエルサレム。それはあなたの置かれた家庭でしょうか、エルサレム。あなたの置かれた職場でしょうか。あなたが係わっているその様々の働きの場でありしょうか。

家庭の中でたった1人で爪弾きされて、そして、色々言われていて、居場所がない様に思えるその家庭。学校、職場に行っても、クリスチャンであると言う事の故に、何かと差別されて、何か言うと非難されてと言う中にあるでしょうか。そして又あなたが係わる仕事の中であなた自身がどうしていいか分からない悩みを抱えているでしょうか。どうしていいか分からない自分の限界を感じているでしょうか。問題に押しつぶされて、どうしていいか分からない中に、暗闇の中に閉じこめられた状態でもあるでしょうか。でもエレミヤに主は約束して下さいました。私はあなたを助け出す。彼らはあなたに決して勝つ事は出来ない。そう言って下さっているんですね。あなたがどんな所に置かれていようが、どんな行き詰まりを今経験していようが、彼らはあなたに勝てない。そして私はあなたを助け出す、と主は言って下さる。主はその様にして私たちを勝利に導いてくださる。

で東京の話をしましたけれども、やがて、私は昭和28年頃から教会に行き出して、やがて、私はクリスチャンになって行きます。そこで、私は知っていきました。私のその母教会の本郷先生は、戦前、東京の下落合と言う所で、伝道しておられたけれども、戦火が激しくなって、そこにいられなくなって、会津若松の方に疎開して、そこで農業をしながら、ひたすら再帰を祈って待っていた。本郷先生は、何時も祈っていた。私は何時までも、こう言う農業はしたくない。早く東京が回復して、早く東京に帰って、そして、そこで伝道したいのです、と毎日下手な農業をしながら、本郷さん、あなたの畦は何時も、くねくね曲がっていて、そこで農家の人に笑われていた。とそう言うんです。こんな農業をしている中でやがて必ず自分は、主に仕える時が来ると、そう信じて祈っていた。そして、やがて東京へ帰る道が開かれて来た。

まあ本郷先生の祈りが、東京回復に導いたとは思わないですけれどもね、でも主は聞いて下さっているなあ、そう思いましたね。そして、あなたが涙の祈りを続けて行く中に、必ず主は回復して下さる。それを信じるのですね。1枚の絵をお見せして、最後に1つの証しを見て感動しましたので、それをお伝えしたいのですね。この絵よく見て下さい。私は「喜びの泉」の99年の7月号で読んで感動して忘れない私ですね。この1枚の写真を見てですね、どんと私の中に飛び込んで来たのですね。この証しを書いた方、竹下悦子さん、後の終わりから3番目のおばさんですね。

このおばさんはですね、新潟県の片田舎から、15才、中学を卒業して、そして愛知県の紡績工場に働く事になった。2交代でとてもハードな仕事に就かなければならなかった。それだけでなくして、田舎から出て来たと言うなまりで笑われて、そして又仕事が出来ないと言ってなじられて、毎日毎日泣いて暮らしていた。そして、もう帰りたい、もう帰りたい、と何度思った事か。涙の毎日の中で、ある時、ふと心に閃いた事があった。それは中学3年の時に、どうしてか覚えていないけれども、「クオバデス」と言う小説を読んだ。

そして、もう1つの愛があるんだと言う事を、その時心に残っていた。すっかり忘れていたんだけど、その事が思い出されて、ああ、そうだ、教会に行ってみよう。彼女の心にそう言う思いが起こって、そして町を歩いて探していた時に、電柱に「バイブルクラスあります。」と言う張り紙を見て、そこに飛び込んだ。公民館の1室を借りての集会だったけど。やがて町のキャンプに導かれて行った。キャンプでメッセージを聞いていた時に、心が探られて捧げた。とこう言うんですね。自分は涙の中にいたけれど、自分をいじめる者に対して、憎しみを持っていた、許せない自分があった。その事こそ罪であると言う事が指摘された。しかし、そのあなたの罪のために、イエス様は十字架で死んで下さったのですよ。と言うそのメッセージの中で彼女は涙して、悔い改めて主を信じた。

そして教会に通い、もう1人の青年、真面目な電気工務店に勤めている青年がいた。彼は夜間高校に通いながら、一生懸命電気工事をしていたと言うのですね。お隣のハンサムですね、あのおじさん。あの方がご主人、で結婚に導かれて行く。やがて、4人の子供が与えられて、みんなの子供がクリスチャンになり、子供が結婚して、今孫が6人与えられていて、でその1枚の写真。子供達も皆、孫達も皆、教会学校に通っている。一家中、一族中が、クリスチャンホームになって、幸せな生活を送っている。と言うのですね。

たった1枚の写真ですが、そこから伝わって来るもの、何か心がなごみます。たった1人の姉妹。涙の中に暮らして、生きる希望を失っていた中から、でも主に出会って、その主の真実に従い通して行った時に、やがてこの様な祝福が主によって与えられて行った。エルサレム。この人の家族でしょうか。職場でしょうか。そこにどんなに素晴らしい祝福が溢れ流れたでしょうか。あなたの人生、あなたの家庭、あなたの職場。置かれたその環境を変えて行きます。主は生きて働かれるお方です。そして、この町、あなたの置かれたこの町、家庭と言う町、職場と言う町。そこが人々の間、世界の間で喜びの名となり、栄誉となり、栄となる。これが約束です。今日もその主を見上げて、その主を信頼してまいりたいものです。


お祈りを致します。
天のお父さま。
感謝します。
今日もこの様にして、主がお1人お1人に臨んで下さる事を覚えて、誠に感謝いたします。
どうぞ新しい歩みを主が祝して下さいますように、尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します
アーメン