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3.私のいない高校 4.学校の近くの家 |
●「四十日と四十夜のメルヘン」● ★ 新潮新人賞・野間文芸新人賞 |
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2009年09月
2005/06/09
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「四十日と四十夜のメルヘン」という題名ですから、てっきりメルヘン的な小話40篇と思っていたのですが、まるで予想外のストーリィ。 「クレーターのほとりで」は「メルヘン」より具体的ですけれど、何時の時代のどんな男女間の出来事かよく判らないまま、最後にはネアンデルタール人の話題となるのですから、これはもうお手上げ。 四十日と四十夜のメルヘン/クレーターのほとりで |
●「このあいだ東京でね」● ★ |
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2009/03/21
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現代社会をありのままに描いた8篇。 表題作「このあいだ東京でね」は、家を買おうとする場合の、誰もが辿るであろう過程を連綿と描いた篇。 読み終えた後、本書にどんな仕掛けが施されていたのかと思い巡らせると、つい可笑しくなってしまう。でも、小説のもう一つの要素である、物語としての面白さはないなァ。 さようなら、またいつか/このあいだ東京でね/TOKYO SMART DRIVER/障壁/夜の目撃談/ワンス・アポン・ア・タイム/日付の数だけ言葉が/東京か、埼玉 |
●「私のいない高校」● ★ 三島由紀夫賞 |
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2011/07/09
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題名と表紙の絵からすると、主人公がどこかに隠れてしまっている、姿を現さない小説、かと想像するのですが、大違い。 絵の女子高生とは関係なく、主人公というべき登場人物が誰もいないのです。代わる代わる誰かが主人公を務める、ということではありません。端的に言うと、誰も主人公にならない小説。 誰も主人公にならないとどういう小説になるか、というと、誰かの主観というものが一切ない。 ですから、事実だけが書き連ねられてストーリィを形作っている、ということ。 実験的な小説、そう思います。 舞台はさる女子高校。今回その高校の2学年はカナダからの留学生を受け入れます。彼女が来日してみて初めて判ったことは、元々ブラジル出身。したがって英語もそう得意ではなく、達者なのはポルトガル語。 しかし、その留学生ナタリー・サンバートンも主人公になることはなく、彼女を迎え入れていろいろと配慮に苦労する担任教師すらも主人公とはなりません。 高校2年の数ヶ月が、途中に広島〜萩〜長崎という旅程の修学旅行もはさみながら、淡々と出来事だけでストーリィが進められる、という風。 ですから不思議な感じです。 主人公のいない小説とはこんなものか、という初体験を楽しむ気分。 修学旅行場面では、つい私自身の修学旅行体験を振り返ってしまいました。 では面白いか、というと、そもそもそうした小説ではない、と言う他ないようです。 |
4. | |
「学校の近くの家」 ★☆ |
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小学生を主人公に、小学生の視点から見える世界を描いた、小学生小説。これは珍しき哉。 中学生になると自分で考えて動かなくてはならない部分があったので記憶があるのですが、小学生の時というのは決められた中で動いている部分が多かった所為か、記憶している部分が余り多くない。 その所為か、小学生の時に見ていた世界ってこんなだったっけ?と思いもし、まるでTDLのスモールワールドに入り込んだような気分です。 感じることは、見ている世界が本当に狭い、ということ。学校と家、殆どそればかりという感じです。それ以外に視野が向いていない所為か、その一方で(男子だからなのでしょうか)つまらぬと言うか、考え過ぎというか、余計な想像ばかり巡らしているという風。 確かに、そんな風だったような気がするなぁー。 主人公は杉田一善(ゼンちゃん)、小学五年生。 家が学校のすぐ近くであるため、朝の通学班に属さないただ一人の児童、という設定です。そのため、学校と家の距離感がすごく近い。通学路という行程が殆どない所為か、学校と家以外に視点が向きにくいというところが、本書の主人公像として相応しかったのか、と思います。 そのゼンちゃん曰く、五年生ともなると、低・中学年の頃とは違った世界が見えてくるらしい。確かに小学校の6年間って子供にとっては長い時間ですし、その間における身体的成長等の変化も大きいですよね。 では、小学生の世界へどうぞ。 学校の近くの家/光子のヒミツ/二年生の曲がり角/存在の父親/帰る友達の後ろ姿/十一年間の思い出/別の学校 |