約30年振りの再読になりましたが、とても満足。
英文学を語る上では欠かせない作品だろうと改めて思います。
19世紀初頭のロンドン、気立ての良い娘アミーリアと天涯孤独の娘ベッキー・シャープが、寄宿生の女学校を後にしていよいよ世間に乗り出すところから物語は始まります。
この2人の女性が社会にデビューし、やげて結婚し、結婚後どういう生活を享受し、そしてどういう運命に翻弄されるのか、というのが本物語の内容となります。
富裕な商人の娘に生まれて婚約者もいるアミーリアと、フランス人の踊り子の娘に生まれて何の後ろ盾もなく住み込みの家庭教師からスタートしようというベッキー・シャープの2人は、極めて対照的。
とくに、資産ある男性と結婚をしなくてはどうにもならないこの時代にあって、自力で有利な結婚を勝ち取ろうとするベッキーの積極的な行動には目を瞠ります。現代の女性たちがメリットの高い職を手に入れようと奮闘する姿と変わらないのではないか。自立する女性の先駆的な姿をベッキーに見てしまうのは私だけでしょうか。
“善良なアミーリア”に“悪女ベッキー”と類型的に読んでしまうのでは、この傑作はあまりに勿体無い。
善良なアミーリアはある意味で愚鈍であり、オズボーン夫人となった後も盲目的に自分を愛し誠実に尽くしてくれるドビンに対して何と自侭に振舞うことか。
一方のベッキーは、美人でスタイルも良くその上に才気もあることから、周囲の人間をうまく利用する術に長けていますけれど、夫にとっては当初賢夫人ぶりを尽くしていますし、ドビンという人物の価値についてはアミーリアより余程よく理解しているし、正当に彼を評価しています。
勝手に想像を巡らせれば、ドビンとベッキーが結ばれていたらどんなにベッキーにとって幸せなことだったろうかと思うのですが、ベッキーに対してドビンは不当なくらいに最初から偏見をもってしか見ていない。愚直といってくらい不器用で誠実な人物ドビンは、所詮ベッキーと並び立ちようがないのかもしれません。
ベッキーが本書に描かれるような生活を辿らざるを得なかったのは、ベッキー自身の虚栄心もありますが、上流階級の出身ではないというだけでベッキーの才能を理解使用ともせず終始差別し、また最後にはベッキーの更生を邪魔するかの如くその足を引っ張り続けた上流社会階級の傲慢さにも原因があったと言えなくはない。もっとも、ベッキーが上流社会に食い込もうとした是非も関係するのですが、そこまで言ってしまうときりがなくなりますのでとりあえずは省略。
そのベッキーとアミーリアの周囲には、数多くの人物が登場します。その善良さ・その悪徳さに程度の差あれ、どの人物も完璧に善良ということはないし、最初から最後まで悪徳ということもない。
アミーリアの兄ジョス・セドリしかり、婚約者のジョージ・オズボーン、オズボーン一家の人々、金持ちの老嬢ミス・クローリーおよび准男爵家クローリー家の人々もしかり。また、金を持っているかいないかで態度を変える、召使などの労働者階級の人間たちにおいてもそれは変わるところありません。
本作品には「主人公のいない小説」という副題がつけられていますが、まさに至当。美点や愚かしさも含めて極めて人間的な登場人物が沢山登場しているところが本作品の面白さです。
本作品が傑作たる所以は、特定の人物を云々するのではなく、そうした多くの人々をひっくるめ人間群像として眺めているところにあるといって間違いありません。
そのうえで、私にとって魅力ある登場人物なのは、ベッキー・シャープとウィリアム・ドビンの2人。
ベッキーには上流志向が強すぎる点や調子に乗り過ぎる欠点もありますが、その才気・女傑ぶりはやはり目覚しい。惚れ惚れしたり嫌気が差したりと、読む側の思いもその都度変わっていろいろ忙しい。
ドビンについては、呆れるくらいの愚直ぶりにと他の人物にはない堅実さに共感を覚えるというところでしょうか。
ベッキーにおける浮き沈みの大きさと、ドビンの不動さもまことに対照的。そうした比較もまた面白い。
なお、本書については気長に読むのが良いかもしれません。
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