○人生とは 〜M君の死に想う〜(1997.12.14)

 先日、大学の同級生であるM君が亡くなった。享年32歳。いわゆる”早すぎる死”ということになろう。直接の死因は聞いていないが、仕事で多忙を極めていた中、忘年会だかで飲んで帰った晩に急に具合が悪くなりそのまま死に至ったという。ご冥福を祈りつつ、彼の死を契機に考えたことを述べたい。

 仮にM君の死の要因として、仕事から来たストレスや過労があったとしても、彼が仕事に情熱を持っていたならそれもまた仕方がなかったと言ってもいいのではないだろうか。死はいつ訪れるかわからない。いつ死んでもいいように覚悟し心構えをしておくことは大切な事と思う。そう心がけることで人生は充実するのではないだろうか。

 そもそも寿命の長さだけでその人の生涯が幸せだったとか不幸だったとか言えるのだろうか。もちろん長生きすることに越したことはないが、それがすべてではないはずだ。人生に確たる目標があって日々精一杯生きていれば、たとえ志し半ばで死に対したとしても納得できるのではないかと思う。

 それでは人生の目標とはどのようなものだろうか。”車を買う”家を建てる”といった物質的欲求である人もいるだろう。仕事一筋、仕事こそ生き甲斐だという人もいるだろう。要は本人が持続して持てる目標であり、その実現や維持のため努力し続けることが出来るものだ。”いつか何をしよう”とか”何歳になったら何をしよう”とかいうのはただの願望であり目標ではない。いい例が”定年になったら何をしよう”という言い方だ。定年まで生きている保証もなければ、生きていたとしてもその何かを実現出来る状況にあるかどうかも現時点では分からないのだから。昨今の社会状況に照らし合わせて考えた時、会社が自分の定年まで確実に存続するだろうか。また会社は存続していたとしても自分はその時必要とされているだろうか。

 医学が進歩し平均寿命が延びると共に、国民の負担する保険医療費は増大する一方だ。”長生きこそが1番”という価値観から脱して”生きて何をするのか”ということを1人1人が自覚するような風潮が必要だと思う。21世紀が”姥捨て山”の時代ではなく”ゆずり葉”の時代であるようにと願う。

 

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