○98年総括 〜年の瀬に思うこと〜(1997.12.31)
大企業の不祥事、倒産、自主廃業が続く97年。景気の回復の兆しは未だ見えない。こういう時代にあって年功序列、終身雇用といったシステムを信じる人はいったいどのくらいいるのだろうか。10年後確実に存続しているといえる企業はどのくらいあるのだろうか。
学校教育の問題。過度な競争を強いられ、その歪みが今年様々な事件となって露呈した。”優等生”も”劣等生”も事件の加害者足り得た。ストレスのはけ口が狂気となり、また一方で落ちこぼれた人間をすくい上げられない社会。学校や教師、そして親たちは戦後形成してきたものとは違う新たな価値観を子供たちに提示することが出来ないでいる。この50年ひたすらに信じてきた価値観。例えば、いい学校に進んで大きな会社に入って美人の奥さんをもらって(”もらう”というには不適切な表現ですね)子供をつくって、といった人生が最高の幸福だというような考えは捨てるべき、というか自然と崩壊していくのではないかと思う。(とは言っても学歴社会が無くなるとは思えない。むしろ、ごく一部の”有名一流校”はますますもてはやされるようになるかもしれない。)
自分のアイデンティティーを学校や企業に依存せずに持つこと、そして”満ち足りる”ということを知ることが大切だと思う。それは自分の好きなことを追求する、といったことでも十分だ。○○が好き、と胸を張って言える自分。そのことを追求していくことが法に触れていなければ、そしてそれで生計を立てることが出来るならそんな幸せなことがあるだろうか。他人の目が基準ではなく自分が納得出来さえすればいいのではないだろうか。もちろん結果的に人に評価され、人の為にもなったりすればそれに越したことはないが。
企業は”リストラ”という名の元で”人減らし”が出来るが社会はそれが出来ない。地球上では人間の定員(適正に資源や富が分配できるという観点において)はとうにオーバーしている。日本に限定しても同じこと。出生率の低下を憂う声もあるが、日本は1億を下回るぐらいの人口までであれば物理的にも精神的にも個々がもう少し豊かになるのではないだろうか。命有っての、というのはその通りではあるが、イコール長く生きることではないはずだ。しかし、科学技術や医学の進歩はいたずらに寿命を延ばすだけで、生きる意味を考えるのは個人にゆだねられる。花のあるうちに散る、そんな美意識が死生観に反映してもいいと思う。
もし自分があのまま会社に勤めていたなら、この年の瀬は先行きが不安で仕方がなかったと思う。会社を辞め、”夢”について色々と考えた”浪人”生活は自分を強く、大きくしてくれたと信じる。
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