○個人と組織

和食の出汁の基本要素である昆布の旨味成分のグルタミン酸と鰹節の旨味成分のイノシン酸は、単独よりも合わせた方が、旨味は数十倍に感じられると言う。また一方で、カレーはスパイスの種類が多い方が、個々のスパイスの風味が和らぎマイルドになるという。

全く相反するような現象ではあるが、この様なことは人間関係、組織についてもあてはまるようだ。

 

side-A

人一人の力量は、余程の天才、秀才を別にすれば個人の差は微々たるものだと思う。所詮一人で消化できる仕事量は知れている。しかし、1人よりも2人で、2人よりも5人でと複数で事に当たれば、単純に人数倍以上の成果を挙げることも出来る。

個々の特性を生かして、活気があり結果的に業績が向上するようなチーム作りができるかどうかが、そのチームのリーダーなり組織のトップの力量である。

しかしながら、その辺の見極めが出来るかどうかは、なかなか個人プレーの職務の中では培われない能力のように思われる。そういうポジションについて初めて養われることでもあり、第一当人が何処まで意識出来るかという自覚の問題でもある。例えば、一流の野球選手が監督としても大成出来るかどうかを見てもよく分かる。バッターとして鳴らしたスター選手よりも、キャッチャーのようにプレーの最中で全体を見通すようなポジションに居た選手の方が、監督業としては一枚上手である事が多い。(勿論、プレーヤーの側にしてみれば花形選手への憧れからその人間の言う事は絶対だろうし、元三流選手の言う事など聞けるかという意識はあるだろう、いずれにせよ現役での実績は必要)

厳しい現況はあっても目先の利益にとらわれることなく、大局的に物事が判断できるリーダーを持つ組織に属したいものだし、そういうチーム、組織を作っていきたいものだと思う。

 

side-B

人は大きな組織に属すると、個人の顔が見えなくなる。個々の特質は形を潜め、組織の一員としての色を持つ。それ自体は別に悪いことではないのだが、構成員の傾向により組織全体が特定の”色”に染まり、組織内でしか通用しない”常識”が幅を利かし、それが時として組織が”暴走”したり”自浄作用”を失うことになり、犯罪や社会問題になる事があるのは否めない。昨今の警察不祥事なども、そうした閉じた警察組織の問題だと思う。

良し悪しは別として、その組織の”ずれ”具合は何を持って判断すべきか。この現代日本で”標準”や”常識”を求めたり定めたりするのは難しく、その意味も無いのかもしれないが、定規になるものがあるとすれば、人口比率に見合った組織構成(年齢比率、男女比率、職業比率など)=一般社会そのものと考える。

そういう観点からみれば、多くの組織、団体はスタンダードから外れた”異常”なものと言えるかもしれない。特定の趣味の団体(例えば茶道界、多くの主に非就業の女性と少数の男性幹部)や宗教団体のみならず、学校(多くの未成年者に特定教育機関出身の少数の成年者)、企業、役所や警察などもそうだろうし、一家族そのものだってそうだろう。そういう組織、団体の中に盲目的に居る人と、端から見ている人の間の意識のギャップは大きいものである。

従って、組織の”健全さ”を図る為には、積極的に組織の外の広い社会との接触が必要になる。学校であれば、PTAや地域社会との交流が不可欠である。”お茶人”であれば仲間内で茶会をするよりも、広く第三者が集まるような場所で釜を掛けるべきだ。そういう場で”異見”に耳を傾けることが必要だと考える。