○世紀末を生きる(1999.1.21 1999.9.28追記)

 ”世紀末”という言葉が深層心理にマイナスイメージを与えるのか、あるいはそれさえも商売ネタにしようとする輩もあるのか、99年の世相も決して明るいものとは思えない。

 

 人間、いつなんどき、死ぬか分からない。だから、今日という日を悔いないように精一杯生き抜きたい。その想いがつのって、やりたい事をやるために会社も辞めた。

 しかし、今日この瞬間死ぬ確率は、明日を迎える事に対してずっと小さい(持病があるとか自殺願望がない限り)のだ。結局、明日を今日の連続として生きていかなければならない我々は今日という日に”命をかける”事が出来ないのではないだろうか。失敗を恐れながら大勝負に出るより、無難なやり方で明日に繋ぐ事が日々の行動原理となる。自分も、会社を辞めた時の情熱は、いつの間にやら、日々の生活の中に埋もれてしまっている。

 

 いわゆるバブル崩壊以降言われてきた、社会や経済の構造の変化というのも、未曾有の不況から生じた現象にすぎず、人が自ら望んだものではない。”新しい社会”などというものは、所詮頭では理解できるといった程度の観念の世界でしかないのかもしれない。

 終身雇用の崩壊、学歴偏重の見直しとは言っても、企業に属していれば、仕事も人間関係も無難にこなして、上に上がりたいだろうし、自分の子供は”良い”学校に入れたいのが、人情というものだろう。

 人々にそういう意識がある限り、新しい価値観や社会が創造されることは難しい。”新しいもの”は、ある日突然革命のように生じる訳ではない。大方の人々が意識の底で求めているものが行動となり、結果社会をゆっくりと方向転換していく。であればこそ人々が本当には欲していない社会には、なかなか成り得ない。

 

 では、少なくとも自分は何を求めているのか、と自問してみる。

 個人的な視野から言えば、自分のやりたい事をやって、社会的(経済的)にも成功したいということ。それが結果的に、人々の美や食に対する嗜好にプラスαを与えられればと思う。

 一個人の想いで、社会を変えようなどとは思ってはいない。自分の考え方、感じ方が絶対だと思っている訳でもないし、他人の異見を受け入れるだけの器量は持っているつもりでいる。ただ、今まで接することのなかったものに、触れる機会を与えられる場や時間を提供したいと考えているだけである。それをどう受け止めるか、どう消化するかは、相手が勝手にすれば良いことである。

 

 世紀を越えるという大きな節目を機に、今一度自分の生きる目的を確認したいがために、とりとめなく綴った。自分が立てた目的に向かって、日々を生きていきたい。

 

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