余録 2

坂本龍馬を斬った男


 私の母親は幼時に両親を亡くしたため、父方の大叔父に引き取られて育てられました。大叔父は岡山で材木屋をしていましたが、その妻女の祖父は元岡山県の役人で手代木(てしろぎ)直右衛門勝任といいました。この人は江戸時代に会津若松で松平容保家若年寄をし,明治維新後に岡山県に奉職しました。その弟に坂本龍馬を斬ったといわれる佐々木只三郎高城がいます。
 直右衛門・只三郎両人の父親は会津藩の与力であった佐々木源八といい、長男直右衛門が手代木家を継ぎ、次男主馬が佐々木家を継ぎ、三男只三郎は父親の実家で縁戚関係にあった江戸の御家人佐々木家に養子となりました。

幕末には主君松平容保が京都守護職となったので直右衛門も京都にいました。只三郎は、将軍警護のために文久二年にできた浪士組の取締付となり、文久三年上洛する将軍家茂について京都に赴きました。さらに見廻組与頭(くみかしら)(役高千石)に昇進します。
慶応二年孝明天皇が崩御され、将軍家茂も亡くなりました。

慶応三年十一月十五日、坂本龍馬が土佐藩邸前の近江屋にいることを知った只三郎は、輩下の渡辺吉太郎、今井信郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎とともに近江屋に押し入り、中岡慎太郎と一緒にいる龍馬を斬りました。龍馬は即死し、中岡は一命を取り留めますが翌々日落命しました。誰が襲ったかは当時不明で,新撰組の仕業ではないかとの噂も流れましたが、明治三年刑部省に今井信郎が申し出て、この七人が襲ったことが知られました。
 慶応四年正月三日に只三郎は鳥羽伏見の役に四百人の見廻組を率いて参戦し、六日の戦いで銃弾が当たって紀三井寺に逃れます。負傷した只三郎は土地の者に金を与えて救うよう頼みますが、その者は金だけ受け取って逃げ去ったので只三郎はそこで亡くなったと遺族が伝えています。
 なお直右衛門は会津に帰ったのち会津若松城の戦で、敗戦の使者に立ったと伝えられます。明治三十七年まで生きた直右衛門は『会津剣道誌』に、只三郎が明治二十年まで生きていたと書き残していると作家峰隆一郎が記しています。
http://www.gakken.co.jp/m-bunko/_200110/fic_34.html
知人の伊藤博さんが調べた結果、明治二十年に亡くなったのは只三郎娘の高であり、これを只三郎のことと峰氏が誤解したことと判明しました。
http://yokohachi.com/yokohachi-hp-1/sub504.htm

 なお、私の母の大叔母である文は、直右衛門の長女元枝と、薬剤師であった吉田学の間に生まれた子であり、元枝が夫に死別後再縁先でなした男子である太田収は、東京帝国大学卒業後、当時学士としては珍しい山一証券に入り社長になりました。鐘紡新株相場に失敗して昭和十三年自殺しました。この人のことは、山岡荘八が伝記を書いており、
http://www.f2.dion.ne.jp/~sanko/denki01_05.html
獅子文六の小説『大番』にも登場します。また『滅びの遺伝子 山一証券興亡百年史』(鈴木隆著 文春文庫)にも紹介されています。
收は鐘紡の中国進出を支援する考えで株を買い進めたのですが、シナ事変の勃発で鐘紡の中国進出ができなくなって、
新株発行が削減されたといいます。