「神楽坂まちの手帳」
牛込神楽坂寄席事情(1)
わら店亭


 牛込神楽坂は、明治になってから商業地として繁盛するようになりましたが、江戸時代には北側がすべて武家屋敷であり、南側も毘沙門天周辺の坂道ぞいに町家があるだけでした。明治維新で武家屋敷がなくなって商家が増え、明治二十年代に坂道の段々をなくしてゆるやかにしたこともあって、山の手きってのにぎやかな盛り場となりました。当時、盛り場に欠かせないのは寄席でした。寄席も落語を中心とする色物席だけでなく、女義太、講談、浪曲専門の寄席が営業されて、人を集める拠点になっていました。これまでに神楽坂で営業した寄席についてこれから記してゆきたいと思います。
 神楽坂坂上から南の光照寺の方へ入る道を昔から「わらだな」と呼んでいました。おそらく藁を売る店があったためでしょう。ここ牛込の藁店には古くから「わら新」という寄席がありました。土地の名前から「わらだな」ともよばれたのですが、天保年間には義太の興行が行われています。ここで売り出したのが、初代都々一坊扇歌です。扇歌は都々逸やトッチリトンを作って三味線を弾きながら唄う「浮かれ節」の元祖とされています。八代目入船亭扇橋が雑誌『大法輪』昭和十一年新年号で伝えているのによると、扇歌は文政八年八月一日からここ牛込藁店で看板を上げた、つまり主任の芸人として高座を勤めたとしています。このとき師匠の初代船遊亭扇橋と先輩の初代麗々亭柳橋も並んで口上を述べました。古い芸能通の関根黙庵が著した『講談落語今昔譚』では、これを天保九年としていますが、師匠扇橋は文政十二年に亡くなっていますから、文政八年が正しいと思います。扇歌は以来、客に題を求める謎解きや即席都々逸で人気を取り一世を風靡します。
 この寄席は明治になって「笑楽亭」と名を変えて色物席になりました。たとえば明治二十三年の顔付けを見ると、
●藁店・笑楽亭 一月下席(十六日から三十日まで)
 橘家圓太郎(四代目・高座でラッパを吹いた人気者)、三遊亭圓左(初代・のちに落語研究会を起こした功労者)、橘家小圓太(のちの二代目三遊亭小圓朝)、三遊亭金朝(二代目・芝居噺が得意)、*三遊亭圓朝(当時の三遊派頭取)
というすごい顔ぶれになっています。
*落語界最大の名人とされています。多くの落語や「怪談牡丹灯篭」など名作といわれる人情噺を創作し、その速記を収録した大部の「全集」が出版されています。命日の圓朝祭は今でも落語界の行事になっています。
笑楽亭は、明治二十四年ごろ女義太夫の竹本小住という人の所有になって、玄人と素人が半々に出演する義太夫席になりました。座敷がきれいになったと評判になっています。明治二十八年には改築して、このころから「和良店亭」という落語中心の色物席に戻りました。さらに「和良店演芸館」ともいいました。
 小住の夫の佐藤さんは明治四十年に全面的に改築をして、名前も「高等演芸館」と改めました。当時は「高等」が流行り言葉だったようで、のちのハイカラ、ゴージャス、セレブのたぐいでしょうか。あらゆる分野の演芸者が出演して、二月十日にはなばなしく開業式を開きました。座席はまだ畳敷きですが、かなり大きい寄席でした。建物も地下室があって、地下に喫茶部や食堂まで作ったと故人の圓生さんが伝えています。佐藤さんは洋行帰りだとかで、将来はこうなると思ったのでしょうが、時代が早すぎたか、あまり流行らなくて失敗に終わったようです。
 大正三年にまた人手に渡ったか、映画館になりました。圓生さんは、著書の『寄席切絵図』で映画館の名前を「牛込館」と伝えていますが、先代の桂文楽さんは『芸談あばらかべっそん』で「文明館」と伝えています。明治三十九年六月の『新撰東京名所図会』に「わら店亭」の写真が載っています。寄席のむこうに高い西洋館風の建物が写っており、これが別の映画館の「牛込館」で、「わら店亭」は「文明館」が正しいのかもしれません。「わら店亭」の映画館がいつまで続いたのかはわかりません。

牛込神楽坂寄席事情(2)
牛込亭


 わたしの手元に「牛込亭」の古い番組一枚があります。今の上中下旬興行と異なり、月の前半と後半十五日づつ興行していた当時で、年号を書いてありません。新聞で調べると大正七年七月下席のものでした。当時の会派は月給制度の東京寄席演芸株式会社の派と、もう一つは月給制度に反対して入場料収入に比例した出演料のワリ制度に固執する落語睦会の二つの派があって、寄席と芸人の所属が別れていました。牛込亭は会社派に属する寄席でした。この番組に載っている人を、遅い出番の人から順に解説してみましょう。
 トリの柳家三語楼は、大正五年に真打に昇進したばかりの若手売出し中で、英語など新語を交えて人気に投じます。のちに金語楼、志ん生の甚語楼、権太楼、七代目林家正蔵などの門下を擁して一大勢力となり、大正末には「落語協会(俗に三語楼協会)」を設立したほどの人でした。
 その前は新内の橘家宮歳で、吾妻路宮歳から改めました。次の三代目滝川鯉かんは入船米蔵と掛合噺をしていましたが、独りの出演では音曲噺をしていたようです。今様能歌舞の中村霞諷は会社に属しておらず、そのとき臨時に出演を依頼されたいわゆるノセモノだろうと思います。柳家つばめは、三代目小さんの娘婿にあたる二代目で、当時としてはインテリの落語家といわれました。浮世節・手踊の春の家駒之助は、東海道駅名の唄などで売れましたが数年で地方回りに転じます。
 次は柳家小三治から四代目を襲名したばかりの蝶花楼馬楽で、のちに四代目小さんになりました。先年亡くなった五代目小さんの師匠にあたります。奇術のビリケンは、落語家から転じて地天齋貞一門下の貞桜から弄球子(ろうきゅうし)ビリケンになりました。次の柳家蝠丸は、新作落語「ラブレター」の作者であり、先年亡くなった十代目桂文治さんの父親です。
 物真似の江戸家猫八は初代で、先年亡くなった猫八さんの父親であり、小猫さんらの祖父にあたります。初代猫八は動物物真似で独演会を開くほど売れました。次に講談の邑井貞吉がいます。その前の春亭燕柳はのちに柳朝を経て四代目柳家つばめになった人で昭和三十六年に亡くなりました。三遊亭三玉は初代遊三の門弟です。笑話の三平もおそらく初代遊三の一門だろうと思われます。
 このとき会社派に属したほかの寄席は、芝琴平亭、下谷寿亭、麴町靑柳亭、八丁堀朝田亭、白金大正館、三田七大黒、上野鈴本亭、人形町鈴本亭、本鄕若竹、四谷若柳亭、京橋金沢、新寿亭、赤坂鶴梅亭、芝川升亭、神田立花亭、両国立花家、浅草並木亭がありました。
 これに対する落語睦会の寄席は、芝恵智十、人形町末広亭、神田川竹亭、神楽坂演芸場、神田白梅亭、四谷喜よし、浅草東橋亭、薬研堀二州亭、本所若宮亭、深川桜館、竹町とんぼ、赤坂富岳座、深川常盤亭、京橋新富亭、芝祇園亭でした。
 このころから、誠睦会、東西落語会、新睦会などの会派が乱立して、大正の落語界は大震災まで混乱が続きます。
さて、話を牛込亭に戻しますと、神楽坂から大久保通を過ぎて、少し先の右側、路地の奥にありました。できたのは明治十年頃といわれ、初めは持ち主の名を取って「岩田亭」と呼びました。明治後半になって相撲の親方の武蔵川が買って「牛込亭」にしました。一時「三柳亭」としたと三遊亭圓生さんが伝えていますが確認できません。圓生さんは武蔵川の現役名を大関鬼面山としていますが、わたしは剣山といった人ではないかと思います。持ち主は明治二十一年が岩田甚吉、三十七年が坂東ヤス、大正十五年が吉原かねとなっており、何度か人手に渡ったようです。
第一次落語研究会を始めた功労者とされる初代三遊亭圓左は、この寄席に出演した晩に倒れて亡くなったと伝わっています。圓生さんは真打に昇進した大正九年に初めてここで独演会を催してもらったそうです。
関東大震災には焼けませんでしたが、芸人が焼け出されて集まらないためか一時は講談や浪曲を掛けていました。その後落語を中心とする色物席に戻り、現在の落語協会の前身である東京落語協会所属の寄席になりましたが、ときどきは浪曲も掛けていたようです。定員は三百人足らずでした。
牛込亭は戦災で焼失してなくなりました。

牛込神楽坂寄席事情(3)
勝岡演芸場と源氏節


神楽坂を上がりきり、今の大久保通りと交わる神楽坂上交差点を右に曲がって四・五軒目のところに「勝岡演芸場」という寄席がありました。明治二十年ごろから記録が見え、明治末年までは「鶴扇亭」と呼ばれる講談の寄席でした。持ち主は樋口という人だったようです。大正に入ると名前が「柳水亭」と変わり、落語を主体とする色物席になりました。三遊亭圓生さんも出演したことがあると伝えています。
ところが大正六年ごろから関東大震災までは浪曲をかける寄席に変わったようで、浪曲の興行記録に名が見られます。震災後になると、浪曲にも落語にもあまり興行記録が見られなくなりました。大正十五年の『東京演芸場組合員名簿』では、名前が「勝岡演芸場」、持ち主が「岡本小美根」になっています。持ち主の変わったのが、「柳水亭」となったときか震災後「勝岡演芸場」になったときかはわかりません。記録で寄席「勝岡演芸場」の名を確認できたのは昭和六年までですが、営業はその後も続いていたようです。どんなジャンルの演芸を興行したかはわかりません。マイナーな寄席、いわゆる端席(ルビ:はせき)としてジャンル不定な興行をしたのでしょう。
持ち主であった岡本小美根はその名前から、もと源氏節の芸人であったと考えられます。この源氏節は明治時代に一世を風靡した芸能ですが、今では忘れ去られたものなので、今回は、源氏節とは何かについて述べてみたいと思います。
幕末の名古屋にいた新内の岡本美根太夫が門付芸の説教祭文を取り入れて「祭文江戸説教」を作ります。明治になって、その弟子の岡本美佐松(のちに東京に進出した美狭松と同一人物かもしれません)が「説教源氏節」と改め、さらに「源氏節」になったといいます。美根太夫は明治十五年に亡くなりますが、その妻の美家吉が多くの女弟子を育て、岡本美矢尾、美矢登司(ルビ:みやとじ)といった女太夫がおおぜい現れて美しい声で歌ったようです。
源氏節興行では、はじめに次のような名古屋甚句を唄います。
「丸い卵も切りよで四角、とかく浮世は色と酒、さけに雀の紋所、ところ変われば品変わる、かわる八方外ヶ浜、浜のほとりに木が生えた、はえた通れば二階から招く、まねき二十一妹は二十(ルビ:はたち)、はたちで道中がなるものか……」
 甚句は土地々々の地方唄で、民謡の米山甚句、越後甚句、佐渡甚句、また角力甚句があります。名古屋甚句のあとに、天一坊、大岡政談、小栗判官、膝栗毛、阿古屋などの説教浄瑠璃が入ります。その浄瑠璃に合わせて若い女優が人形振りの踊りや女芝居を演じました。台詞がついた芝居であったようで、演劇博物館編集の『芸能辞典』には「説教源氏節 大江山頼光一代記 加州安宅関山伏問答 身振手踊り芝居」という台本の写真が紹介されています。
明治二十七年ごろから一座が東京に現れて寄席で興行をいたします。明治二十七年八月十八日の東京朝日新聞には、「……源氏節女芝居というは、女俳優十二名、源氏節太夫五名をもって一座とせしもののよし……源氏節というもの、浪花節を湯だきにして薩摩琵琶の露を食うような調子なりと評せし人あり。とにかく上品な唄浄瑠璃ではないが、音調に妙な曲節ありて耳新しいだけ、見物大喝采なりという。俳優の中、西川鍵次、西川恵津次などいうはすこぶる美形にて……」と、源氏節元祖岡本美狭松一座の興行を伝えています。とにかく、若く美しい女優がなまめかしく踊ったようです。その後も「源氏節手踊」と称して、浅草、神田、麻布などの寄席に岡本美名松、岡本美根吉らの一座が次々と現れます。一時は全盛だった女義太夫を圧倒して大衆演芸の王座を占め、源氏節一座は約十組が活躍しました。
寄席は劇場と異なり座席と高座の場所が近いため、エロチックな演劇類似行為はわいせつに流れるとして禁止されていましたが、改めて警視庁は観物場取締規則を改正して、明治三十八年六月末で源氏節手踊を禁止しました。源氏節の演技は、その後も娘剣舞劇に挿入されて大正初めまで東京に残りました。地方ではのちまで形をとどめたところもあるようです。
「勝岡演芸場」の持ち主であった岡本小美根は、名前から見て源氏節女芝居の太夫であった人であろうと考えられます。「勝岡演芸場」はその後戦災まで映画館になっていたと地元の方が伝えています。

牛込神楽坂寄席事情(4)
神楽坂演舞場の番組と芸人たち


 明治中ごろから神楽坂の途中に「辻むら」と「石本亭」という二つの寄席ができました。「辻むら」は明治二十六年ごろ「若松亭」と名を改めて講談・義太夫・浪曲で営業しました。「若松亭」は五番地、「石本亭」はやや坂上の六番地です。しかし「若松亭」は明治四十一年に「神市場亭」と改名して浪曲専門になります。このころ「石本亭」が廃業し、その跡へ「神市場亭」が移転しました。「神市場亭」は大正六年ごろ色物席に戻ります。このときに「神市場亭」は「神田白梅亭」の出見世となり牛込「神白梅(ルビ:かみはくばい)」と「神楽坂演芸場」の二つの名称を使うようになりました。その後業界ではこの寄席のことを「カミハク」と呼びならわすようになります。昭和五年には新発足の日本芸術協会の親席になりました。親席は正月初席に会長がトリを取り、協会の会合にも使います。
 席主は地元の有力者であった千葉博巳氏になりました。千葉氏は吉本興業と提携して名人会形式の興行を催すなど経営に策をめぐらします。そして寄席が不景気をかこつ昭和十年にはこの寄席の名称を「神楽坂演舞場」と改めました。「神田立花亭」が「立花演芸場」に改名したのもこの年です。不景気解消の窮余の策であり、芸者町であるこの地の演舞場を兼ねたのでしょう。
 国立劇場が所蔵している昭和十一年七月中席の番組を紹介します。番組のうしろから順に、出演している芸人を紹介しましょう。
最後に出る桂三五郎・河内家芳江は夫婦漫才で、上方落語から漫才に転向し、このころ東京にいました。戦後も昭和三十年ごろ芸術協会に復帰しています。柳家金語楼は芸術協会副会長で、「落語家の兵隊」など新作落語を自作自演して売れに売れました。この興行では、新宿末広亭とここの二軒バネ(二軒の寄席でトリを取る)をしており、そのため早く寄席から出ていけるよう漫才に後をまかせています。漫才のリーガル千太・萬吉は戦後も活躍しましたが、この二人も、もともと金語楼一門の落語家で、柳家緑朗・語楼といいました。
次の寺島玉章は戦後までいた人で、秦玉章の名がありましたから中国曲技を見せたのでしょう。その前の春風亭柳橋は、芸術協会会長だった六代目で、改作の「支那そば屋」やラジオの「とんち教室」により全国的人気を博しました。その前の林家正蔵は七代目で、三平の父、現在の九代目正蔵たちの祖父にあたります。上方落語のあとに軽妙な踊りを見せた桂小文治と、「がまの油」の三代目春風亭柳好は記憶している方も少なくなりました。その前の二組の漫才については、経歴・芸風がよくわかりません。
三升紋彌は落語のほかに高座で曲独楽を使った二代目です。現在曲独楽を演じる三増紋也の父にあたります。落語漫芸の昔々亭桃太郎は柳家金語楼の実弟で、戦後も新作落語で活躍しました。落語踊の春風亭小柳枝はのちに「芝浜」などで売れた三代目桂三木助で、落語のあとに踊りを見せました。この翌年あたりからしばらく落語界を離れ、通寺町の自宅で花柳太兵衛の名により日本舞踊の師匠に専念します。紙切の五明楼玉の輔は落語家の四代目五明楼玉輔の子ですが、当人は紙切を演じていました。音曲の文の家かしくは桂小文治の一門で、戦後も名を可祝として芸術協会の寄席の楽屋で働いていました。前座の柳家みのるは初め金太といい、金語楼の一門ですがまもなく寄席に出なくなります。
 「神楽坂演舞場」は関東大震災による焼失をまぬかれ、山の手随一の色物席として繁盛しましたが、昭和二十年四月十三日の空襲で焼失し、復興しませんでした。しかし地元に落語への愛着を残し、神楽坂を今でも地域寄席の盛んな土地にしています。

牛込神楽坂寄席事情(5)
立花家橘之助


 今回は神楽坂に縁のある寄席芸人について紹介します。
昭和四十九年の本編と五十六年には続編との通しで山田五十鈴が演じた東宝現代劇「たぬき」は芸術祭大賞をはじめ数々の賞を受賞しました。その主人公こそ明治から昭和にかけて浮世節の名人といわれた立花家橘之助(ルビ:たちばなやきつのすけ)です。赤城元町の清隆寺に葬られています。二代目三遊亭圓橘一門となり、男名前ですが女性音曲師としてデビューしたのは六歳のときといいます。慶応四年の生まれで、義太夫・清元を習い、それと俗曲で高座を勤め、子供ながら美しい声と節回しを売り物にします。天才少女としてめきめき腕を上げ、八歳で真打の披露をしました。男装姿も評判になって人気が高まり、長唄・端唄などさまざまな音曲を取り入れた曲を作ります。明治十五年から三年半ほど上方・名古屋を巡業します。男と見違えた祇園の舞妓たちが張り合って争いをしたという話が残っています。そこで仕込んだ音曲もまじえて「三府音曲浮世節」の一流を作り上げます。ちょうどその巡業から帰ったばかりの時期の板行ビラを筆者が所有しています。帰ってからは女髪に結い直し、舞妓姿で高座に出たようです。
明治二十年代には三遊派の幹部として位置づけられるほどになっています。ところが明治二十六年に、のちに六代目朝寝坊むらくになった永瀬徳久という芸人と駆け落ちし、一年ほど地方を巡業します。その後も何人かの落語家との艶聞を流しました。歴史に名を残す浮気症という評もあるほどです。それでもその地位は不動のもので、音曲でトリを取り、「女大名」の異名で呼ばれて権勢をふるいました。もめ事に巻き込まれても誰かが後始末をしてくれ、人気は衰えることがありませんでした。それどころか、師匠圓橘の遺族の面倒を見たとか清元の旧師の名を残したとかで、賞賛さえされています。
 自作の「たぬき」は茂林寺やかちかち山などの狸が登場する長い曲(録音を測ると12分51秒)ですが、あらゆる音曲が取り入れられていて聴く者を飽きさせることがありません。ほかにも多くの作品を創りましたが、この「たぬき」が代表作とされています。ねたまれて水銀を飲まされたために声が変わったともいいますが、ほかの人とは比べようのない音曲を披露しています。
 三味線の腕も確かなものでした。まったくツボを外すことがなく、凛とした音を聞かせてくれます。SPレコードに吹き込まれて残っている音締めを聴くと、すぐに橘之助とわかります。糸が切れても胴裏の皮が破れても、何かあったと気づかせないように三味線を弾いてのけたといいます。直門の門弟もいたようですが、その後の音曲師が競ってその曲を学び、誇らしげに演奏しています。「たぬき」を伝えてその後聴かせてくれた人では、日本橋きみ栄、西川たつたちがいました。
 三代目三遊亭圓馬は大阪出身ですが、東京に出てきて橘之助門弟として落語家になり、初め立花家橘松と名乗りました。立花家左近を経て、七代目朝寝坊むらくとなり、東京を離れて橋本川柳で大阪に居着き、のち圓馬を襲名します。
 “横浜の”といわれる古今亭志ん馬も大阪出身であり林家染之助の名で上京し、橘之助の紹介で三代目古今亭志ん生門下に入ります。「誠睦会」という一座を起こすなど派手な活躍もありましたが、のちに落語家を引退しました。橘之助に目を掛けられていたので、圓朝の遺品など橘之助が所有する落語文化遺産を託されて受け継ぎました。
 橘之助は明治から大正にかけて活躍して足跡を残し、大正十三年に引退したのち初代橘(ルビ:たちばな)ノ圓(ルビ:まどか)と夫婦になって京都紙屋川のほとりに居を構えた直後、昭和十年の洪水で家ごと流されて亡くなりました。二人は赤城元町の清隆寺に葬られました。