私の諸芸縁起(拾遺)

 大学に入ってすぐ入部した日本文化研究会の歌舞伎部では、翌月の五月祭をよく憶えている。しかし二年生の五月祭の演目は忘れていたが、ようやく思い出した。「与話情浮名横櫛」の源氏店の場であった。舞台裏で、お富の銭湯帰りだか与三郎の登場だかに「かうもり」を唄い、与三郎と安の退場に「騒唄」を唄った。立方が誰かに指導を受けたかどうかは知らない。大道具は長坂元弘氏に手伝って頂いた。お富は由井常彦さん(のち明治大学教授)であった。由井さんは「封印切」で茶屋の女将も演じた。
 三年生のときから、五月祭だけでなく十一月の駒場祭でも歌舞伎を上演するようになった。三年生では「梅雨小袖昔八丈」新三内の場・深川焔魔堂橋の場であった。四年生では「伊賀越道中双六」沼津の場だったかと思う。駒場祭は落語部が忙しいので私は手伝えない。
 常磐津の稽古は、はじめ文左衛門の自宅だけであったが、サラリーマンになってからは、神田錦町の料亭会館を使うことが多かった。二階に三十畳敷ぐらいの広間があり、舞台もついていて、温習会にも使えたように思う。管理人のかたも文左衛門の稽古を受けていた。また、東京の芸者町で師匠の稽古先の一つだった白山の見番二階も浴衣会などで使ったことがある。二年に一度ぐらいはそこで芸者や女弟子たちの温習会がある。師匠の夫人が日舞の師匠花柳寿音さんであり、常磐津と日舞と共催の発表会は新宿の朝日生命ホールなども使った。芸者たちは我々をいつまでも「学生さん」と呼んで丁重に扱ってくれた。ある年の初午の晩には、師匠自宅へ巡回してくる白山芸者の茶番を、日舞の弟子の女の子たちと一緒に見物した。
 ヒッチコックマガジンファンクラブでヘンリースレッサーの小説を落語にして演じた際、中原弓彦のほかに永六輔も聴いていて、「江戸弁のスレッサーも面白いね」と云ってくれた。田舎者の私は、浅草子の永六輔や日本橋子の中原弓彦に江戸弁と云われて嬉しかった。
 神田立花演芸場が閉席して、「落語研究会」の中断とともに、天狗連は篠山家の本堂を使わなくなり、その後は東京ガス人形町サービスセンター二階和室で稽古会を行った。
 柳亭燕路は逗子に夫人所有の別荘があり、諸芸懇話会例会をこの別荘に一泊して行ったとき、左近さんが燕路に進呈したまねき看板を私がうらやましそうに眺めていたのを左近さんは憶えていて、後日私が著書の「東京落語散歩」を進呈したお祝いとして、私の芸名「牡丹亭胡蝶」のまねきを書いてくださった。
 東大の駒場時代に芸能活動に熱心過ぎたためか、単位不足になりかけたことがある。第二外語のドイツ語で不可を取った。しかし高校生時代にフランス語をかじっていたせいか、第三外語のフランス語は優であった。そのためか工学部への進学はなんら問題がなかった。IHIがフランスCEA(原子力庁)の開発した一体型舶用原子炉の技術提携を行ったとき、担当メンバーに入れられ、フランス語会話を社内講習二年、さらに日仏学院で一年間大学生ら若者に交じっての授業を受けたが、その卒業成績はトレビアン(優)であった。
 CEAは官庁であることから、契約実務は傘下のテクニカトム社が当事者となり、協力企業として電機メーカーのアルストム社とアトランティック造船が参加した。今にも原子力商船が受注できるような雰囲気になり、提携契約のために副社長に帯同する数人に加わって私も渡仏した。先方は大歓迎をしてくれた。パリ近郊にあるサックレー研究所と南仏のカダラッシュ研究所、ノルマンディ地方サンナゼールの造船所視察とナントで会食、夜のLIDO招待・ヴェルサイユ宮殿観覧・著名レストランでの連夜の接待を受け、私的に訪問したルーヴル美術館やバーゼルでの原子力見本市見学でも丁重な送迎をしてくれた。ミシュランでも一流のルドワイヤンでの宴席で、ホストであるフランスの経団連会長に相当するアルストム社長から味見したワインを突き返されたソムリエが大慌てするのを初めて見た。ヴェルサイユの昼食ではアトランティック造船副社長夫人の隣席となり、「何になさる」「(メニューを見て)エスカルゴを試したいです」「いいわ、わたしも同じにする」。初めてのエスカルゴは香味オイル仕立でおいしかった。この副社長は若いとき、ミシェルサルドゥが唄にしている客船「フランス号」の建造主任だったそうだ。この出張から帰ってきて私のフランス漬けが本格的になった。しかし、原子力商船の受注は実現しなかった。
 IHI船舶海洋事業本部の企画部長になったとき、本部長から「受注不振だが、海外の顧客の感触を探ってくれ」と云われた。営業部の担当部長に頼んで欧米の荷主・調査機関・船会社に面会を予約してもらい、彼との二人でニューヨーク・ロンドン・オスロー・パリの訪問先を巡回してヒアリングを行った。パリでは、立ち寄ったマルシェ跡の地下にできた書店でフランス小咄集の原書をしこたま買い、レコード店ではベロニクサンソンなどのシャンソンレコードを買った。帰国前日にロアール河沿いの古城巡りをした。
 本社で用地開発部長になったころ、江東区は小学校不足と貧弱な区内南北交通網を懸念して再開発を敬遠していた。私は豊洲と臨海部の一体化を見越した研究会を立ち上げ、地域の潜在力評価と開発意欲促進を図った。
 造船所問題で面識のできたある国土庁高官を団長にした海外再開発状況を視察する研究会の案内をもらったときこれに参加した。先ずロンドンのドックランドとテームズ南岸の映画村・パリのポルトマイヨーとイタリア広場・バルセロナのサグラダファミリヤなどの再開発を視察して、ミラノ・ピサ・フィレンツェ・ヴェネツィアにも寄るという研究会は、かなりくつろいだ旅ができた。バルセロナでは、薄暗い夜のクラブでフラメンコを楽しみ、各都市の美術館と大聖堂は残らず見学した。
 再開発プロジェクト進行に伴い、私の上司として不動産事業部長ができたが、「銀座の店に顔が利く所を作っておいてくれ」と命じられたので、私はおおっぴらに銀座通いをした。交際費予算をたっぷり取り、しかも時はバブルの只中であった。東京電力・東京ガスなど近隣大企業との情報交換もあって、かなり銀座で飲んだ。東京電力の都市開発担当者の一人が京都出身で、彼が言うには「実は京都もウォーターフロントなんですよ」。そこで私は「そうですね、吉井勇も『かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる』と歌を詠んでいます」と応じた。東京ガスでは、歌舞伎部で三角屋敷の按摩宅悦と鳴神の白雲坊を演じた山本さんが、常務から癌研理事長になっていたが、噂だけで再会はしなかった。カラオケバーで岩井半四郎やNHKの山川静夫と偶然同席したこともある。私の「百万本のバラ」は山川氏から憶えた。高校後輩がママをしている四谷のバーでカラオケをしていると、笑顔で声を掛けてくる人がいる。見ると元歌舞伎部で三角屋敷の場の与茂七と髪結新三の家主を演じた中島君であり、朝日新聞から日刊スポーツ社長になっていた。
 昭和四八年造船業界全体の不況に伴う人員整理のとき、会社残留者も減給された。このとき以来私は若干の副収入を得る副業として、「科学技術文献速報」の文献抄録を行った。担当は原子力とエネルギー問題の論文で、言語は英仏二語。所定の原稿用紙に二五〇字程度の日本語抄録を作成する。
 IHIのコンピュータ導入以来プログラミングやその使用はもっぱら部下に任せて自分では手を触れなかったが、科学技術情報センターから、原稿をフロッピーに入力して納品するようにと、退職した平成八年にマッキントッシュを貸与されてPCを使うようになり、後ウインドーズに移った。