私の諸芸縁起(六)

 平成になってから、私は常磐津の稽古をやめていたが、名取りになった仲間は、平成七年に菊三八が亡くなった後も松尾太夫を師匠にして、稽古を続けていた。その一人が、落語だけではなく常磐津の調査もやってみないかと私に言う。私も常磐津の調査には同感で、落語調査の経験を活かせば常磐津でもある程度のことはできると思うが、ざっと五年の年月と一千万円の費用が必要だと言うと、その男は内閣情報調査局にもいたことがある顔の広い元検事であるが、なんとかすると言う。
 それから一年ほどしたある日突然電話してきて、文化庁に調査事業の話をつけ、常磐津節保存会会長・常磐津協会会長・関西常磐津協会会長・常磐津家元・岸沢家元にも連名で申請者になってもらうことになったから文化庁に集まってくれという。そこまで準備されたらやらざるを得ないと引き受けて、平成十一年度から「常磐津節に関する継承の調査」に着手することになった。文化庁文化財部伝統文化課に行って、『古今東西落語家事典』のあるページのコピーを示し、自分はこのようなことをしており、常磐津についてこれに似たことをしますと説明した。そこには宮田繁幸さんがいたのですぐ理解され、調査費を付けてくれた。
 それから常磐津初演以来の演奏者の名前と曲名のデータベース作成を開始した。東大駒場図書館の黒木文庫、国立劇場所蔵資料などを検索し、東京中日新聞社のデータベース部が所蔵する「都新聞」縮刷版、横浜の日本新聞博物館新聞ライブラリーの「都新聞」マイクロフィルムなどの関係資料を閲覧した。さらに、常磐津両協会の各メンバーに対してアンケート用紙を送り、芸歴その他の記入を依頼した。松尾太夫はカメラが趣味であったらしく、古くから撮りためていた多くの演奏家の顔写真を提供してくれた。
 また、東大落研後輩の鈴木君が停年後に雑誌『邦楽と舞踊』を買い取って社長をしていたので、その事務所を訪ねてそのバックナンバーを閲覧させてもらった。その結果、ほかでは得られない貴重な写真や演奏曲の記録、改名時期の特定などもできた。倉田喜弘さんは手持ちの新聞コピーを提供してくださった。
 そのような調査を続けているうちに三年目に文化庁担当官から、今年度でしめくくりにしてほしいと言われ、調査費を若干増やしてくれたので、平成十三年度の最終報告書を作成した。そして、各協会のメンバーには、現役と故人の演奏者を収録したデータベースの別刷を、「常磐津演奏者名簿」として配布した。
 この常磐津の調査活動は、常磐津若音太夫こと竹内有一さんが平成二三年度から京都市立芸術大学の教員として私の作業を引き継いで八年間も継続してくれ、成果物である「常磐津節演奏者の経歴に関する調査報告書全八巻」を常磐津節保存会の「常磐津節演奏者名鑑」として平成三一年に完成してくれている。
 平成十七年に三遊亭圓之助が四代目小圓朝を襲名するとき、三代目の持ちネタ録音を調べてみると四三話残っていることが分かり、四代目襲名ビデオとともにこれを収めたCD-R二枚を作り、東大落語会会員間で配布した。
 諸芸懇話会が始まって何年かして、燕路から落語協会・芸術協会の古いカケブレコピーをもらっていた。貴重な資料ではあるが、しだいに邪魔だと感じてきた。電子化すればかさを圧縮できるが、手間がかかるし、費用がただではすまない。そこで、文化庁の予算がもらえないだろうかと思いついた。
 文化庁に打診してみると、実演者団体からの申請なら、芸術団体人材育成支援事業の中の資料作成が適用できるという。
 そこで平成十八年度の事業に「寄席興行出演順資料のディジタル化による保存」として落語協会と落語芸術協会の連名で申請することを、落語・落語芸術両協会の会長に了承してもらうよう左近さんから頼んでもらった。圓歌・歌丸両会長は、左近さんの仲間が行う事業ならと、なんら異論がなかった。二年間かかる事業なので先ず落語芸術協会から申請してもらい、うまく通ったので平成十九年度は落語協会の事業として完了させた。
 その私のカケブレコレクションに欠けたものを両協会から集める他に、左近・保田両氏二人に協力してもらったところ、昭和二三年から平成十八年までほとんど欠落がなくなり、その時点での最良コレクションができた。各協会には一太郎かWORDによるそれ以後の電子ファイルがあるので、それ以降の電子化継続も可能となる。成果物は各カケブレのPDFファイルを作り、ファイルメーカーProのデータベースにしたもので、時期とトリ演者名で検索できる。その成果物は、電子ファイルをDVD-Rに収納している。
 落語散歩で町歩きをしていてその町の人となじみになることがある。その一つに、牛込神楽坂があり、昔は寄席が多い土地であった。芸者町でもあり神楽坂はん子・浮子も出た。東京メトロ東西線神楽坂駅から通りを南東に進むと牛込亭、勝岡演芸場、わら店亭、そして坂を下って毘沙門天の坂下あたりの裏が、神田白梅亭の出店だったため仲間内でカミハクと呼ばれていた神楽坂演舞場の跡になる。この町のタウン誌から、神楽坂に存在した寄席の記事執筆の依頼があった。平成八~十三年に立壁正子さんが発行する『ここは牛込、神楽坂』では「わら店亭」について、風俗画報の挿絵を引用しながら解説した記憶がある。
 平松南さんが平成十五年~平成十九年に発行した『神楽坂まちの手帳』の「牛込神楽坂寄席事情」では、九号「わらだな亭」、十号「牛込亭」、十二号「勝岡演芸場と源氏節」、十三号「神楽坂演舞場の番組と芸人たち」、十四号「立花家橘之助」についても書かせてもらった。ただ寄席の名前と場所特定だけでは面白くないので、国立劇場伝統芸能情報館で古い番組を見つけて紹介すると面白い記事として喜ばれた。寄席が消える直前は浪曲を興行することが多く、芝清之『新聞に見る浪花節変遷史』が廃業時期特定の参考になった。
 五代目柳家小さんについては、かつて私が彼の落語集を編集したことがあるためだろう、彼の経歴について私が第一人者と見なされていて、朝日新聞出版の『人間国宝』「第六九号 柳家小さん・桂米朝/一龍斎貞水」や、『TBS落語研究会DVD五代目柳家小さん大全』では、私が年譜の執筆を依頼された。これまでの文献で生じた疑問は、小さんの小学校卒業の年が昭和三年とされてきたが、一月の早生まれだからその前年ではなかろうかということである。今となっては確かめようがないのでそのままにしている。
 オープンカレッジでは、法政大学エクステンションカレッジ・明治大学紫紺倶楽部でも昭和の落語名人について話したことがある。
 早稲田大学オープンカレッジではオムニバス講座『寄席演芸 名作名演鑑賞』の一コマとして、桂文楽と柳家小さんのビデオを見てもらいながら、江戸の風俗についてお話しした。最後の一回は私の京都移転後になったために、学校まで新幹線で行くことになった。
 噺家に大卒は多いが、東大卒で初めての落語家は春風亭昇吉であり、卒業高校が私とは異なるが岡山県出身である。NHK岐阜放送局主催の全日本落語選手権大会に挑戦したいので、噺を聞いてくれと私の家にやってきた。私は着物の着付け・角帯の締め方から指導し、その未熟すぎる「芝浜」にも注意など与えた。その年は成果が得られなかったが、卒業前の挑戦で策伝大賞を獲得し、大学でも「東京大学総長大賞」を受賞した。卒業後落語芸術協会の春風亭昇太に入門してプロになった。私の京都移転時には私が所蔵する約千話の落語録画テープすべてを彼に与えた。令和三年の真打昇進が予定され、活躍を期待している。