私の諸芸縁起(5)

 昭和四八年七月に三遊亭小圓朝師匠が亡くなり、下谷の浄林寺に葬られた。東大落語会はその後も、命日に近い日に毎年揃ってお詣りしている。墓は圓橘が守っている。
 昭和四九年に青蛙房から『林家正蔵集』を出したとき、『正蔵一代』のための山本さんの聞き取りには、私も同席させてもらった。
 昭和四九年原子力船「むつ」が原子力による試運転を行った結果、放射線漏れを起こして青森県漁民の入港拒否を受けた。私は太平洋沖で漂流する「むつ」の出迎えに派遣され、無事に入港させたが、遮蔽改修が必要なことがわかり、改修場所などで揉めた末に工事を佐世保船渠で行うことになり、その二次遮蔽改修の詳細設計はIHIが昭和五十年ごろ新設した原子力船開発部副部長の私が担当した。
 IHIは原子炉の技術を持たないで「むつ」の仕事を行ったが、原子炉の技術を持つべきだとして、フランス原子力庁との間で舶用原子炉の技術提携を行い、「むつ」が終わった後もその導入を担当したので、それ以後数年の私は、フランス小咄集原書収集、歌はシャンソン等と、フランス漬けであった。
 「原子力船むつ」は、原子動力航海実験を行ったあと解役されたが、令和二年日本船舶海洋工学会から「ふね遺産」に指定された。
 深川書房が昭和四九年から隔月で発行した雑誌『落語界』では、山本・橘左近・燕路・斉藤忠市郎たちとともに落語家名跡代々を調べる連載座談会記事のメンバーにされた。これを通して芸人経歴調査の関心を高めた。
 燕路が言い出して、落語・講談・浪曲・音曲の研究家を集めた「諸芸懇話会」が昭和五一年に発足する。懇話会メンバーとの付き合いを通して私の落語研究の視野も広まった。その成果として、昭和五六~五七年に立風書房で出した『名人名演落語全集』全十巻や、平成元年に平凡社が出した『古今東西落語家事典』を生み出すことができた。
 昭和五六年に私は船舶海洋事業本部の企画部長に異動した。さらに、昭和六十年には本社部門に移り、本社企画部の担当部長として常務会事務局や企業団体対応などを行った。
 このころ、東京都は都庁を丸の内から新宿に移す代償としての東京東部振興策としてウオーターフロントの臨海副都心構想を持っていた。都が臨海副都心のグランドデザインを描くには晴海・豊洲両埠頭の間に橋を架ける必要があるが、その奥で操業するIHIは架橋により造船が不可能になる。IHIは豊洲の代替工場として横浜工場を持つが、豊洲従業員の多くは千葉方面に住むのでその調整も要する。地下鉄有楽町線と豊洲駅の開通を機とし、これらを解決して工場再開発をするべく、IHIは昭和六三年に用地開発部を設けて私が部長を命じられた。
 社長に鈴木俊一都知事を訪問してもらい、我が社は工場を再開発するための要望事項が受け入れられれば豊洲の造船所を閉鎖する考えがあると伝えた。用意した申し出事項が大筋で合意されて東京都は晴海運河に橋を架けることが前提の臨海副都心構想を発表した。架橋は後の魚市場移転にもつながる。
 IHIで私は豊洲駅そばの社有地に、駅前広場と事務所ビル一棟を建設する事業を開始した。三十七階建ての超高層ビルであり、名前が「豊洲センタービル」、主テナントはNTTデータと決まった。その建設中で上棟式前の平成三年から、私は石川島造船化工機という砂町にある子会社に移って監査役を五年間務めた。造船所跡地はその後再開発が進み、事務所ビル・超高層マンション・商業施設「ららぽーと」・芝浦工業大学・結婚式場などが建つ町に変貌している。
 以前、東大落研の一年先輩でIHI管理部門にいた川瀬さんから、私的な仲間のために落語散歩の案内をしてくれと頼まれた。平成二年三月の遊廓三十三回忌の日に、浅草雷門始点~吉原終点間を歩き、打ち上げに桜鍋を食べるというコースを提供した。これがやみつきになって二ヶ月ごとに私の計画したコースを歩く落語散歩会が定着した。
 これを知った後輩の某君から、毎日新聞系文化教室の講座に入れたいと申し出があった。幸い私の子会社退社翌月からの開講だったので、これを引き受けて渋谷・津田沼両教室の生徒に対して月二回の座学講義を行い、散歩を両教室合同として年間六回組み入れた落語講座「落語にみる江戸の庶民生活」を開始した。十数人の生徒も定着した。この教室は数年で終わったが、その後を中目黒の読売新聞系文化教室が「落語の江戸を学んで歩く」として引き継いでくれ、合計で十年間続いた。
 この散歩のコース原案を基にして、青蛙房から『東京落語散歩』と『落語の江戸をあるく』を上梓していただいた。また、前書は角川書店で文庫にもなった。落語散歩は文化教室以外でも、豊島区や北区が区民教室の一つとして採用し、また学士会にできた「落語会」、毎日新聞旅行、NHK文化センター、その他でも行った。さらにお江戸日本橋亭にも頼まれて、終点の「お江戸日本橋亭」まで歩いたあと三遊亭圓橘の落語を聴くという散歩会を、コースを変えながら十回ほど行った。
 文化教室の普段の座学の日は江戸風俗のテーマを決めて講義した後、その事項が出てくる落語の録音を聴いていただく。三千話ぐらいの録音・録画テープを所有するのでどのようなテーマでも対応できる。珍しい風俗では長編人情噺からも引用した。のちに江戸風俗の解説を集めて『江戸落語便利帳』を出版したときに、その事項に触れた噺が『増補落語事典』に載らないばあいも噺の内容がわかるよう、梗概と解説を示す「長編人情噺・文芸噺事典」を添付した。この本は、受賞は逸したが、刊行直後に「大衆文学研究会」の大衆文学研究賞にノミネートされた。
 都市再開発が盛んなころに、開発事業者団体の機関誌として『都市再開発』が発行されていたが、固い記事の中の挟み記事として「落語にみる江戸の風景」を連載した。さらに平成十一年と十二年には大河ドラマの番組ガイド誌を出す出版社から、赤穂浪士や徳川家康などの歴史事件やその登場人物背景についての原稿執筆依頼を受けたこともある。
 平成十三年のある日、千葉の山奥にある帝京平成大学の五十嵐助教授から連絡を受け、私の中学高校の学友であった小田晋国際医療福祉大学教授から紹介されたと言い、帝京平成大学で「お笑い講座」を作ろうとしているが協力してくれないかという。五十嵐さんは元筑波大学教授の、『悪魔の詩』事件で殺害された方の未亡人である。大学は吉本とも提携したが、学生のアルバイト先もない辺鄙な場所に、学生を集めるための工夫として面白い講義をしてほしいと言う。
 そこで「お笑い文化論」「落語文化」を講義し、さらに「EXCEL演習」と「英語」を引き受けた。それ以外に理科系対象に「CAD入門」を担当した学期もあった。パソコン使用は退職後に始めていた。
 最初の年「お笑い文化論」は四百五十人もの答案を採点した。漫才と落語のビデオも使用した。見せた落語の梗概を十行ぐらいで書けという問題を試験に出した。再試験の人には、私の著書を買ってそれに載る落語を書き写すことで単位だけ与えた。
 平成十四年歌舞伎研究会仲間とともに文左衛門・菊三八追善常磐津演奏会をお江戸日本橋亭で開催し、私は常磐津節保存会会員の常磐津津太夫(実は私の弟弟子)およびその弟子の津紫摩の三味線で「夕涼三人生酔」を独演し、仲間が唄う老松・乗合船・関ノ扉・将門のツレも唄った。会を手伝ってもらった学生には優を与えた。平成二十年に辞めたが、大学は池袋と中野の校舎ができて東京の大学となったので、お笑い講座がなくても学生が集まるようになったようである。