私の諸芸縁起(四)

 造船所は朝八時から仕事が始まり、十二時から一時までの昼休みは弁当工場で作った弁当を食べ、午後四時に終業になるが定時で帰ることはほとんどなく、二時間以上残業するのがあたりまえである。就業時間中の外出には課長のハンコをもらった許可証を受付に提出する。都心に出るには工場前から銀座経由新橋行きの都バスに乗る。
 昭和三十年に有楽町第一生命ホールで開始した湯浅喜久治の「若手落語会」には山本さんとともに協力した。メンバーのほとんどはそれぞれの師匠を通じて既に知り合いであった。山本さんと私が湯浅のアパートに集まって出演順と演目を決める。昭和三一年に始まった東横落語会でも同じことをした。山本さんが勤めるNHK人事部固有の手法なのかそれとも山本さんが考案したものかは知らないが、効果的な人材管理ツールにもなるカードを使った方式により、各人の持ちネタの組合せを検討する。若手落語会のメンバーでは、自分の演目リストを提出してもらってカードを作った。噺が時候にあっているか他人と重複がないかなどの妥当性も判断しやすい。
 東横落語会では、ホールの設備で口演を録音をしてもらった。オープンリールのテープを渡して録音してもらうのだが、毎回新しいものを渡すには当時テープが高価なので、毎回書き取る今でいうテープ起こしを行って、使い古しテープを渡さざるをえなかった。カメラを持ち込んで舞台写真を撮ることも認めてもらったが、私のカメラは安物のため鮮明な写真が撮れなかった。そのころ写真を勉強中で高級なカメラを持つ高校生の篠山君に撮影を代わってもらった。
 そのような落語筆記を安藤鶴夫が見て、筆記が演者の呼吸まで写し取っているハイファイ速記と見てくれ、これを出版するように普通社を紹介してくれた。書き取り用の録音機は私と馬場が金を出し合って購入した共用機であったが、やっと個人用の機械を買えることになった。普通社刊『落語名作全集 』第一期全五冊のうち、新作落語の一冊と『百花園』を収録した第二期は別人編集のものである。
 昭和三二年か三年の夏に、東横落語会が展示会を開くことになり、品を借りて回る湯浅喜久治に車で同行したことがある。先ず、九段南の三増紋也を訪ねて、傘に変化するような変わり独楽を、次に目白の小さん宅で三代目小さん襲名チラシなど先代から伝わる文書類、次に手妻の一徳斎美蝶の家で箱積みなどの変わり手妻ネタなどを借用した。美蝶の家は練馬だった気がする。このとき小さん襲名チラシが展示会終了後紛失していた。東横から謝罪はしたであろうが、今も気になる。
 昭和三三年に私は住宅公団単身者住宅に当選し、鶴見の豊岡に転居した。この頃私は推理小説に夢中になっており、高校同級生の稲葉明雄や丸本聰明が翻訳した小説が載ったりする雑誌『ヒッチコックマガジン』のファンクラブに参加し、ヘンリー・スレッサーの「となりのあなた」とかいう短編小説を落語にして中原弓彦らの前で実演したことがある。
 湯浅の自殺や桂三木助の死亡に遭遇するのもこの頃だ。三木助のときは、会社から鶴見まで帰って食事している駅前の店のテレビニュースで知って、すぐ田端に駆けつけた。
 昭和三五年は私の会社が播磨造船と合併して社名が石川島播磨重工業と変わりその後も合併を繰り返して今のIHIとなる。私も本社機構の技術本部開発部開発三課に異動した。勤務地は今までと同じ豊洲であった。そこでは水中翼船などの技術開発に従事した。
 時期は忘れたが、毎月柳家小さんを囲む「小さんを聴く会」に参加していた。笹塚にある団体生命保険副社長の花岡さん自宅に集まって小さんの落語を聴く。ネタおろしの場合や、柳家小延のような新弟子の初高座もある。しかし、小さんが椙森神社のときのような緊張感を感じなくなったとかで、いつしか終わりになった。
 若手育成に意欲的だった三遊亭圓生は、TBS協賛を得て東宝演芸場で「若手勉強会」を開いた。当初は終了後楽屋で圓生や飯島さんによる指導があった。またTBSの赤坂寮で、試演を聴かせてもらうこともあった。
 昭和三五年には『圓生全集』が始まる。飯島さんからの発案に青蛙房の岡本社長が応じたもので、山本・私・馬場が編集委員となり、全十巻百話の演目を決定した。この本では演目配分への山本さんのカード方式が生かされ、また大学生だった篠山君に仕草の写真も撮ってもらう。篠山君は「ミチノブ」よりも「キシン」として有名になってからも、私たちの落語集仕草写真や圓生肖像写真集には参加してくれた。
 しかし、各演目の芸談聞き取りを済ませたところで、山本さんがニューヨークの大学留学兼支局駐在員となって抜けてしまう。後は馬場と二人で原稿を作り、毎月一冊発行のペースを守るのに懸命だった。毎週日曜日に柏木に通って圓生から演目を録音し、仕草の動きをメモさせてもらった。
 全集完了の後、圓生のファンとかいう伊東の不動産会社の社長に招かれて、圓生夫妻・荒木町「蔦の家」のおかみ・岡本経一社長・飯島・吉田・馬場が伊東の一泊旅行をした。
 その後飯島さんと圓生師の間がギクシャクし始め、飯島さんの出版物も青蛙房からではなく筑摩書房が中心になりだした。それは圓生が大阪の笑福亭松鶴から借りていた『文我の日記』を、飯島さんが又借りして書写させているうちに盗まれて紛失してしまった事件に起因するものだ。飯島さんはそのころ高島屋の商品試験室の顧問であったが、資料・蔵書類は銀座一丁目のアパートに保管していた。後日その一部が小島貞二氏に発見された。
 昭和三八年に私は結婚して,草加松原団地に転居する。その年青蛙房から『桂三木助集』を出版した。当時指導を依頼された成蹊大学落語研究会では何度か落語散歩の案内をした。
 昭和四〇年から四三年まで、私は原子力船開発事業団へ出向となり、私の永い原子力船開発との縁が始まる。通常は基本設計責任を造船所が持つが、この船では特別に発注側の事業団が持ち、私はそこで船の仕様を決めた。
 昭和四一年に青蛙房から『柳家小さん集』上下を出したとき、どこか涼しいところで、という師匠のご希望があったので、馬場が予約してくれたIHIの熱海の寮の一室に泊まり込んで、小さん師匠の芸談を聞き取った。
 三遊亭小圓朝を東大落研OB会の集まりに招き、噺をしてもらって録音することもあったが、四二年に師匠が倒れて中断した。この年、我が家は横浜市神奈川区に転居した。
 山本さんは東京オリンピック後にメキシコの準備状況を取材され、ニューヨークから帰国された。一緒に『圓生全集』別巻三冊を発行できたのは昭和四三年だった。
 今村均著『落語事典』の内容に不満を持たれる青蛙房の岡本さんの依頼により、東大落研OB会が作成した昭和四四年新版の『落語事典』では、山本さんが主張するテキスト依存主義を貫きながら、複数のOBが協力して原稿を作成した。梗概は噺ごとに分担して書いたので、人による精粗がある。この際に「東大落語会」の名前が定着した。その後保田さんが精力的に増補した現在の『増補落語事典』は決定版といえる内容になっている。
 私は「むつ」の船体部の設計と安全審査受審を済ませて四三年に事業団から、IHIに工場の造船設計部艦船基本設計課長として復帰した。「むつ」は補助動力で航海できるようにして残りは大湊で行うよう引き継ぐ。
 昭和四五年には『三代目三遊亭金馬集』を編集し、その七回忌の日に発行した。
 昭和四八年ごろに船舶事業本部の技術開発を企画する性能開発室へ異動して、長くいた造船所を離れ、以後大手町勤務になる。