私の諸芸縁起(三)
吉田章一
 昭和二八年秋に病気が治って東京に戻った私にとって新しい変化は、祖師ヶ谷大蔵の下宿の小母さんが体調を崩して食事を出せなくなり、台東区北稲荷町(現東上野五丁目)に下宿を移ったことだ。当時八代目林家正蔵の長屋がある通りの一つ北側の通りで、斜め前に銭湯があり、朝風呂に行くと正蔵と一緒になることもあった。翌年からの通学にも至便であり、鈴本へも近かった。
 ここで私は本牧亭に通う楽しみを見つけた。当時まだ木造の本牧亭は、安藤鶴夫の『巷談本牧亭』にあるとおりの世界で、顔の長いお茶子の岡田さんがおり、その娘が玄関で「いらっしゃい」と迎えてくれる。岡田さんは、かつての映画関係者の未亡人とかで、小柳枝の住む肴町の長屋近くで見かけたことがある。
 講談の客は少なかったがそれを聴ける幸せを感じながら、よく通ったのは、後に桜州になった小金井芦州の会であり、若いときからその友人であったと聞く古今亭志ん生がこの会によく聴きにきて客席にいるのを見かけた。四代目神田伯山もまだ桃川如燕で、その後神田五山を経て伯山になる。田辺南龍、邑井貞吉、神田松鯉、服部伸、木偶坊伯麟などが懐かしい。後に親しくしていただいた『講談研究』の田邊孝治さんや講談速記本コレクターの吉澤英明さんが通いだしたよりやや早かっただろうと思う。この寄席で小圓朝独演会をしたときにテケツをしていると、顔を見覚えてくれた岡田さんの娘にも話しかけられた。この後事情があって私は柴又帝釈天の近くに一度転居し、さらに四年生からは駒込へと、繰り返し転居した。
 神田立花演芸場の落語研究会は毎月聴いていたが、林家正蔵が演じる「淀五郎」を聴いてから、『古今いろは評林』などで調べてみると淀五郎は実在の人物であり、相手役の團蔵を五代目の渋團蔵とすると時代が違うので、四代目の目黒の團蔵とするべきだと判明した。次に圓生が「淀五郎」を演じたとき、そのことをはがきで知らせると、ヴィデオホールの高座から、はがきを失ったので申し出てくれと言われた。日を改めて鈴本の楽屋を訪ねたところ、食事しながら話を聞かせてくれといって、上野風月堂地下食堂でフランス料理をご馳走してくれた。このとき関係する蔵書をいくつか持参したので、圓生はその後機会があるごとに、私が持参した本の数が「こんなに」多かったと言われた。それ以後圓生の「淀五郎」は四代目團蔵で演じられた。
 昭和二九年の私が大学三年生のとき、新しい出会いがいくつかあった。
 進学先の船舶工学科には、馬場浩一がいて、「実は俺も落語大好き人間なので、落語研究会に入れてくれよ」と言われた。この馬場とは、のちに同じ会社に勤め、落語筆記の仕事もいくつかいっしょに行うようになる。
 また、既に大学を卒業してNHKに勤務していた山本さんからの紹介だったと思うが、倉橋純一さんという、鹿島建設設計部に勤める技術者がいて、落語に関する趣味が高じて八代目桂文楽に入門し、アマチュア落語家としての名取りになったが、口跡が講談の南鶴さんに似ているとの理由で桂文鶴の名を与えられた人がいた。その門弟の黒田健之助は既に柳家小さん門下の落語家になっていた柳家小助といい、後の六代目柳亭燕路である。文鶴一門には、当時まだ芝中学の生徒だった篠山紀信(芸名 桂文紀)や、青物市場の若い衆二人もいた。
 この文鶴一門とともに、毎月神田立花演芸場で開催される落語研究会を聴いたあと、電車で篠山君の実家である中野の円照寺まで一緒に行き、本堂を使わせてもらいながら落語を演じて批評しあうという会を行った。この人たちとの共演で、百人ちかく入れる中央区集会所和室に客を呼んでの発表会では二番煎じ・文ちがい・三軒長屋(上)を、試演会ではお藤松五郎・お若伊之助・おさん茂兵衛・三枚起請・猫怪談などを演じたと記憶する。
 もう一つの出会いは他大学落語研究会の面々である。きっかけは忘れたが、早稲田大学落語研究会の方から呼びかけがあって、大隈会館に参集した。早稲田は暉峻康隆教授と、まだ助手であった興津要先生も同席された。慶應義塾大学、法政大学も同席する中で、落語研究会の連盟を結成し、それぞれの催しにはたがいに連絡しあい招いてはどうだろうかと提案された。みなが賛成したので早稲田の方から名前を「全都下大学落語研究会連盟」とし、略称「全落連」としたいとの発言があって、異議は出なかった。私に同行していた二年生の部長は、全学連からの嫌がらせを心配していたが、それはなかった。
 その後早稲田からは、二代目三遊亭遊三を聴く会などの案内を頂き、大隈会館和室で行われたこの会には私も参加した。演技後の懇談のときに、八代目桂文楽が演じる「よかちょろ」は唄がまるでできていないと評されるが、初代遊三が得意にしていた「よかちょろ」はどのような節回しでしたかと訊ねた。そうすると、遊三はこんな節回しでしたよと、手を打ちながら文楽よりテンポ良く「よかちょろ」を唄ってくれた。
 そのころ小さん門下の小伸が二つ目に昇進して小山三となり、出身の國學院大學に後援会「伸栄会」ができた。何度かこの会に呼ばれて、「笠碁」をしゃべったこともある。
 さらに昭和三十年の春だったと思うが、全落連の落語大会を開こうということになって、法政大学が大教室の会場を提供し、各大学から出演者を出すことになった。早稲田は「粗忽長屋」を出し、東大からは医学部の桜井靖久君の「厩火事」と私の「妾馬」を出した。慶応は六大学野球の応援があるので失礼するといって不参加であった。
 さて歌舞伎研究会の方では、二年生の五月祭で下座唄を勤め、芝居の外題は忘れたが、こうもり・騒唄などを舞台裏で唄った。三年生の五月祭では「鳴神」に出演させられ、私は「聞いたか坊主」の黒雲坊をやった。演技指導は市川寿美蔵に頼んだ。寿美蔵は市川寿海一門であり、教えてくれる立ち廻りも本格的市川流である。立ち稽古は向島弘福寺の本堂を借りて行った。舞台装置は長坂元弘氏指導で、ほとんど費用をかけないでそれらしい装置を作った。どうしてこのような一流の方から指導・協力が得られるのであるかといえば、それは東大の名前のおかげだったと思う。鳴神を稽古しているころは柱につかまる都度「柱巻き」の見得を切りたくなったものだ。
 さらに四年生の駒場祭だったと思うが、「梅川忠兵衛封印切の場」で、幇間の役をやらされた。忠兵衛座敷遊びのくだりで、台本にはないがなにか芸をしてその場を盛り上げろという注文である。私は考えて見立てを演った。「何かやれ」と言われて真ん中に出て、「さあさあミタテの始まり始まり」扇子を半開きにして前に投げ出し、「ちょいとこのカゼこう投げて」「こう投げて」「色男とはどうじゃいな」「どうじゃいな」扇を左右に振りながら「ヨヨイノヨイとこう引いて(と手前に引き)風邪引き男は、オホン、どうじゃいな」そこでやんややんやとはやされながら座る。主役の邪魔をしない短さで芸を見せた。
 卒業してから東京の石川島重工業に就職した。それを機会に下宿も墨田区の厩橋二丁目に移った。たび重なる転居によって、私は東京の町のあちこちの地理に明るくなった。
 通勤は、向島か柳島から月島まで走る都電に厩橋から月島三丁目まで乗って、豊洲二丁目の造船所まで歩く。設計部の艦艇基本設計課に配属された。護衛艦などの船舶の性能計算をしたり、試運転で速力・運動性能を測定するのが仕事である。馬場の配属は同じ設計部の構造設計を担当する船殻設計課であった。
 日本の造船業はやがて世界一の建造量を誇るようになる。