私の諸芸縁起(二)
 昭和二七年の大学受験では、まず早稲田大学電子工学科に合格したが滑り止めとし、東京大学理科一類に入学した。祖師ヶ谷大蔵駅近くに下宿を決めた。砧小学校教師宅で、隣家は映画監督の成瀬巳喜男の自宅で、その次の隣に、宝塚を退団して映画女優になったばかりの有馬稲子が住んでいた。
 部活としては日本文化研究会の落語部と歌舞伎部に入部した。この研究会は駒場だけの組織で、本郷では落語研究会と歌舞伎研究会に分かれる。しかし活動は駒場と本郷とが一体として行う。数年後に駒場と本郷で一体化して落語研究会と歌舞伎研究会に組織変更された。入部して先ず行うのは本郷の五月祭の手伝いである。落語は落語家を招いての落語会なので会場設営の手伝い程度しかないが、歌舞伎部は芝居の準備にかり出された。
 その年は『東海道四谷怪談・三角屋敷の場』が予定されていた。私はプロンプターをやれと命じられた。そして役者をする先輩も急いで稽古にとりかかる。習いに行ったのは前年に明治座でその芝居の直助権兵衛を演じた二代目河原崎権十郎のところである。お前も来いと言われて歌舞伎座の楽屋に同行した。権十郎は楽屋に布団を敷いて寝ていたが座り直して、誰の紹介があったのか愛想良く出迎えてくれ、三角屋敷の演技・台詞回しのこつなど、仕草を入れながらひととおり教えてくれる。一瞬だがせがれの権三郎(後に渋谷のエビ様と言われた三代目権十郎)も顔を出す。ひととおり指導がすんでから雑談に入ると、なぜ自分の屋号が山崎屋なのかなどを話していたが、私は何も憶えていない。芝居は大教室で無事に行われたが、お岩稲荷へのお参りをしていなかったことが後で悔やまれた。実は私はこの後、足を滑らせて逆手を突いた結果しばらく右手が使えなくなったのである。
 落語部の五月祭での活動は中教室で、たしか三代目桂三木助とだれかの落語が演じられた。落語部ではその前年頃から飯島友治氏の指導を頂いており、駒場での最初の活動は、三遊亭圓生を招いて「お若伊之助」を聴いたあと飯島さんに解説してもらうゼミナールが新入生歓迎会を兼ねて行われ、山本進先輩自身が鉄筆を執ったガリ版刷りの筋書も配られた。その次は、三木助門下の三多吉(後の都屋歌六)から借りたSPレコードによる五代目圓生演じる三十石などの鑑賞会だった。
 落語部では随時そのような部員対象のゼミナールのほか、春秋二回の一般学生に落語を聞かせる「落語大学」が開催され、秋には駒場祭参加の催しがあった。
 飯島さんは落語を研究する者は一度は扇子を握って高座に上がり人前で落語を演じてみる必要があるとの持論をお持ちで、その昭和二十七年の駒場祭で初めてそれを実現することになった。飯島さんが既に依頼してくださっているので、私たちは本郷真砂町に住む三笑亭可楽の自宅へ行く。可楽は三笑亭夢楽と春風亭小柳枝(染谷)を呼んでくれており、それぞれ三人ぐらいずつついて、生まれて初めて落語を教わった。私がついた小柳枝は、私の話におそらく関西系統のなまりを感じたか「金明竹」を教えてくれた。私はプロとおなじ三回稽古でなんとか憶えたが、それ以上掛かった者もいる。
 歌舞伎部の仲間には翌年初めから常磐津の稽古を始める者がいた。私も誘われて少し後から参加したが、稽古はまだ入門曲『夕月船頭』であったから遅れたことにはならない。師匠は五代目常磐津文左衛門で、本郷向丘の大円寺門前に住んでいた。師匠は東京の白山芸者や地方芸者町に出稽古先を持つが、その合間を縫って東大歌舞伎部の学生に月に四回の稽古を自宅で行ってくれた。師匠は稽古が終わるとウイスキーをご馳走してくれた。数年間は月謝も取ろうとせず、むしろ東大生の弟子を持つことが嬉しいようであった。
 私は二年生のとき落語部の部長に指名される。新入部員募集のポスターを寄席文字風に書くと、飯島さんが見て、「君、紹介するから右近に寄席文字を習いなさい」と言われ、神田須田町の立花演芸場の楽屋に橘右近を訪ねたことがある。右近は立花演芸場の楽屋で雑用・下座・ビラ字書きなどをしていた。落語本の収集もしており、神田古書会館で何度も出会った。
 駒場の「落語大学」は、大教室が満員になるほど入ってくれるので入場料が安くても必ずもうかった。八代目春風亭柳枝や二代目三遊亭円歌にも出演を依頼した記憶がある。三遊亭圓生と西川たつのときは、終演後の楽屋での懇談が特に良かった。
 催しがなくても落語を習いたいという人が何人かいて、夢楽に連絡をとり稽古してもらった。そのとき私は「おしくら」を習った。友達づきあいのように家を訪ね、稽古の謝礼もしなかった。たぶん飯島さんの影響力だろう、嫌な顔もされなかった。ちなみに翌年渋谷区の小学校父母会から呼ばれたオザシキでこの噺を演じて謝礼まで頂いたことがある。
 そのころ日本橋掘留の椙森神社の社務所で柳家小さんが行っている「小さんと話す会」にも連れて行ってもらい、小さんが噺をしたあと、正岡容や飯島さんが意見を言うのを聞かせてもらった。配られた会報は門弟の小伸が編集していた。
 二年の東大生には三年以降の専門課程への進学先振り分けがあり、進学する学科を決めなければならない。部活に没頭して勉強していなかった私は、当初予定していた電気工学科への進学が難しいことに気がついた。当時造船業界が不振なので船舶工学科なら通りそうだと考えて、進学先を船舶工学科として申告した。夏休みに帰郷した岡山で肺結核が見つかったが、親戚の医師がストマイを手配してくれて、パスとともに適用した結果、進学先が決まる秋休み終了までの三ヶ月で快復することに成功した。
 そういう訳で二年生の秋の駒場祭は落語の出演がかなわなかったが、留年もせず、仲間の演技を聴くことにも間に合った。その年は可楽が忙しくなったからと、飯島さんは実演指導の師匠を可楽の代わりとして三遊亭小圓朝に依頼してくれていた。それ以降小圓朝への師事が長く続くことになった。
 常磐津の方も、胸の病気の予後に良いと親が賛成してくれて続けた。夕月船頭の後、伊勢音頭・乗合船恵方萬歳・釣女・小夜衣・関ノ扉・将門・勢獅子・夕涼三人生酔・忠臣蔵二段目・お染久松土手場・お園六三(福島屋・須崎堤・三社祭)・夕霧・老松など、多くの曲を教えてもらった。卒業後も白山の芸者に交じっておさらい会や浴衣会に何度か参加した。落語をタネにした新曲をなにか作ってもらえないかといわれて、「百人坊主大山詣」というものを作ってみたが、長すぎて作曲が終わらなかった。
 社会人になってからは、わずかですが糸代にと、月謝を差し出して受け取ってもらった。地方へ転勤する者も東京に戻ると稽古を再開し、昭和四十八年に文左衛門が亡くなった後も、妹さんの常磐津菊三八(きくみや)から稽古を受け、訳あって辞退した私以外の三人は後年名取りになっている。
 本郷に行って三年生でも、落語研究会の部長になった。五月祭には小柳枝と小圓朝を呼んで落語会を行った。その後小柳枝の自宅が肴町にあると知り、訪問したついでに「粗忽の使者」を稽古してもらった。
 その秋の駒場祭の稽古をしてもらうために小圓朝宅に集まった。前年欠席してそのとき初対面だった私がいきなり先代小圓朝などの質問をしたところ、吉田さんは通のようだと、ほかの人が前座噺を稽古するなかで「笠碁」を教えてくれた。その後も、「妾馬」「二番煎じ」「文違い」「百川」などを習った。芸名は花札にちなんで「牡丹亭胡蝶」と名乗った。