私の諸芸縁起(一)
吉田章一
 私は最晩年を迎えるにあたり、私がこれまでどのように諸芸に触れ、それを愛し、広めてきたかを書き残してみることにした。
 私は昭和八年に岡山市の商家に生まれた。岡山駅前から出発する市電の最初の停留所「西川」では幅十m弱の用水路西川が南北に流れていて、停留所から約六百m南下した位置にある下西川町(戦後柳町に改称)に生家があった。祖父はライジングサン社(後のシェル)の代理店として、パラフィンワックスを原料とする大中小の西洋蝋燭を製造し、手広く販売していた。家の表には錨印の大きな看板が掲げてあった。住宅と工場から成る百坪の家屋内には炊事用と蝋燭冷却用の二つの掘抜き井戸があり、落語『引越しの夢』を聴くたびにその情景を思い出したものだ。
 この西川を境にして東側が旧岡山藩の城下町であり、我が家がある西側は御城下外であった。我が家の氏神様は城下の岡山神社ではなく郊外の今村神社であった。そのため、岡山神社の祭礼にも参加できず、その祭り歌
〽備前岡山西大寺町の大火事で今屋が火元で五十五軒コーチャエコーチャエ、鬼の道を広うせい・・・
の唄も歌わせてもらえなかった。 
 家から三百m東の市電「新西大寺町筋」停留所前の角地には戦前に寄席大福座(おおふくざ)があり、五代目三遊亭圓生がそこへの出演を好んだのは、そこから東六百mにある岡山の中島遊廓になじみの女性がいたためといわれる。大福座は二階にも客席があり、小芝居ぐらいは興行できる大きさであった。戦災後は百貨店天満屋の商品倉庫になったりボーリング場になったり、近年には「(よしもと)三丁目劇場」にもなった。戦前に私が観覧したのは大阪漫才ていどである。
 戦前に岡山で最も大きい劇場は、大福座の五百mほど北、我が家からも七百mほどの研屋町にある岡山劇場であった。ここで私が観て憶えているのは、大阪歌舞伎の巡業公演や「天勝大奇術」などがある。ここは戦後再建されていない。
 父は「これからは蝋燭照明ではなくて電気照明の時代になる」といって、東京電機学校へ進学したが、写真術にはまりこんでしまい、家に帰ってからは住宅の一部を洋館に改造してスタジオや現像室を作り、写真館を始めようとしていた。ちょうどそのころ戦争が始まって、蝋燭の原料であるパラフィンワックスの輸入が全面的に途絶えてしまった。商売ができなくてお手上げになった祖父は隠居してしまう。父は写真館ではまだ家族を養えないと諦めてか、蝋燭工場の包装容器製造工程を活用して菓子箱や洋服箱などを作る紙器製造業を創業した。職人を十人ほども雇える仕事量が確保できた。
 当時の私は読書が好きな子供で、もっぱら貸本屋を利用して少年講談・滑稽小説・のらくろ漫画などを読みあさった。小学校二年のときにそけいヘルニア手術で入院したときは、その見舞いに母が買ってきてくれた『軍神西住戦車隊長』を面白くないと言って佐々木邦の諧謔小説『トム君サム君』に交換させたことを憶えている。
 私が国民学校六年のときが昭和二十年敗戦の年であった。その五月には我が家が家屋疎開の対象になり引越すことになった。近所では田舎に転居する人が多かったが、父は商売を続ける気だったか、旧宅すぐ裏の人の転出した、庭のある屋敷を借りて移った。西川に面した家々は、我が家も含め近隣の人が集まって引き倒してしまった。しかしそれから一か月ほどした六月二十九日の払暁に米軍機多数が襲来して焼夷弾を投下し、倒された旧宅の残骸もまだ残っている市内中心部が全焼になった。移転先の家もすべて焼けてしまった。幸い我が家族は西川の水に浸りながら全員生き延びることができた。
 岡山郊外に住む叔父の家は焼け残ったが、叔父が肺結核のため私は同居できず、祖父に六人いる姉の近郷婚家の世話になりながら転々とたらい回しされた。そのうちの一軒に講談社の『落語全集』三巻があったので、これを読んであらかたの落語の筋を覚えるに至った。
 結核の叔父が亡くなったり戦争が終わったりして、私はまた岡山市に戻った。岡山駅に近い所にある母校の出石小学校も全焼しており、焼け野原での卒業式に集まった六年生は全員の三分の一ほどであった。出石小学校はその後生徒減少のため平成初めに廃校になっている。
 翌年入学試験を受けて旧制岡山一中に通うようになった。この学校は岡山城内に校舎があった。この年それまでの学区制をやめて自由選抜となり、県外の姫路からも生徒が入ってきた。先輩には鶴見祐輔・内田百閒・仁科芳雄・岡崎嘉平太・安井誠一郎たちがおり、後輩にも江田五月や小川洋子がいる名門校である。在学中に学制が変わって男女共学の岡山朝日高校になり、私の高校三年のときから校舎が岡山城内から旭川の東にある旧第六高等学校跡地の現在地に移転している。私は中学一年から高校一年までの四年間最下級生であった。修学旅行も無経験である。
 叔父の家を倒しその材料を使って家を新築し、元いたところに戻ることができたのは中学二年のころだった。
 そのころ毎月十種類ぐらいの雑誌を各数日貸してくれる配達の貸し雑誌屋があって、小説誌・娯楽誌・映画誌などをよく読んだ。小説誌では探偵小説・落語速記・捕物帖に読みふけった。捕物帖は私の江戸への関心の源であり、後年文化教室で話した江戸風俗では捕物帳で得た知識が役立っている。好んで読んだフランス文学単行本はバルザックの『風流滑稽譚』であった。
 そのころ私は気が多くて、ラジオの組立も行っており、五球スーパーヘテロダイン・電蓄など高校卒業までに四台ぐらいのラジオセットを作った。日本舞踊を始めた妹が稽古するときは、電蓄で舞踊曲のレコードをかけてやるのが私の役割となったので、代表的な小唄や端唄はあらかた覚えてしまった。
 ラジオではもっぱら落語や講談を聴いた。落語では三遊亭金馬が唱える「コーコートー、コーコートー」などを面白がった。講談や徳川夢声の物語もよく聴いたが、今も耳に残る大島伯鶴の連続講談「快男児・仁礼半九郎」は、戦前だったかもしれない。
 中学で仲良しになったのは後に犯罪心理学者として有名になる小田晋も含めて、スポーツが不得手で本好きの連中ばかりであった。高校での部活は「新聞部」「文学部」である。
 新聞部では校内新聞の映画批評欄を担当した。一学年上の映画部には後に映画監督になる森谷司郎がいて鋭い映画論を吐いていたが、私はただ市内映画館の封切り映画をスチル写真入りで紹介するだけだった。文学部では、高三のとき校内雑誌『朝日文学』を発行するにあたって小説を募集したところ、一年後輩の四国から転校してきた河野典生が平安絵巻風時代小説を応募してきたので採用し、私がペン画の挿絵を描いて掲載した。
 地元新聞の募集する連載漫画に自分が応募したときは佳作しかとれなかった。しかし、入賞していれば別の道を歩んでいて今はない。従兄弟の一人はプロの漫画家ヨシダ忠だ。
 学友はできの良い生徒が多く、ほとんど一流大学に進学している。卒業のとき個人的に寄せ書き交換を頼まれ、相手が短歌や俳句を書いてよこしてもこちらはそれが作れないので、自作の都々逸を書いて渡した。
 恥ずかしながら憶えているのは
〽寄せて別れて一里が千里
  万里波打つ夫婦波
〽切って割られてまた束ねられ
  燃えて火となる松の薪
という別れ唄を作ったことである。