岩波書店圓朝全集月報に寄稿した文章を紹介します。

 圓朝人情噺と私
吉田章一
 私は昭和27年に東京大学に入学するとすぐ日本文化研究会落語部に入部した。今の落語研究会である。新入生歓迎会は、六代目圓生を招いて「お若伊之助」を演じて貰う人情噺ゼミナールであったので、いきなり人情噺への関心が高まった。私は落語好きであったが、地方出身のため演目の知識は貸本で読んだ大日本雄辯會講談社の『落語全集』程度であり、特に人情噺には疎かった。終戦間もない当時、落語速記本はあまり発行されていなかったが、古書であれば、三芳屋発行の『(三代目)小さん落語全集』など古くからの落語の速記本が多く出回っており、雑誌『文芸倶楽部』には毎号落語の速記が掲載され、年に何度かは特集号も出ている。現在、そのような本はけっこう値が張るが、当時はまだ財力が乏しい学生でも買える程度の値段であった。そこで都内の古本屋を廻り、さらに古書展を目指して神田の古書会館にも出かけて探すようになった。
 運が良ければボール表紙の人情噺速記本に出会うこともあった。その頃入手した圓朝のものでは、『真景累ヶ淵』『怪談牡丹灯籠』『塩原多助一代記』『操競女学校』『松乃操美人廼生埋』『鶴殺疾刃包丁』『鏡ヶ池操松影』などがある。
 就職先が東京の企業であったので、私は大学卒業後も落語から遠ざからないで良いことになった。当時定期的開催が始まった「東横落語会」では、プロデュースをしている方と親しくなり、番組編成への協力の見返りとしてその公演を録音してもらい、落語を筆記させてもらうことになった。当時、磁気テープに録音はしてもらっても、それをダビングするテープを購入できるほど余裕がなかったのでテープを再利用できるよう、レコーダを再生したり止めたりしながら書き取る、今で言うテープ起こしを行った。これなら速記術を知らない私たちでも速記と同じことができる。何人かの仲間と分業するために表記方法を統一した。それも仮名遣い・送り仮名などだけでなく、間の取り方の微妙な違いを、句読点以外に「…」などを使って区別したので、作家の安藤鶴夫氏から「ハイファイ速記」と命名して頂いたように、かなり演者の口吻を想像して頂けるものになった。
 また仕草を挿入して演者の動きが分かるようにした。これは今のビデオやDVDがあれば訳ないことであるが、当時は文字で表現せざるを得なかった。このような記録をしていることを知った安藤鶴夫氏のご紹介で、普通社から『落語名作全集』を刊行して頂き、さらに青蛙房から発行された『圓生全集』などの編集につながって行った。
 テープ起こしの落語本のために、演目と演者の解説を求められることがある。それを書く際に、それまでの文献を参考にすると誤りを犯すことが多く、あるいは当人が間違えて記憶していることもある。
 落語家の経歴や事蹟を古い新聞記事で確認するような、きめ細かい調査をしている方たちがいることが分かり、昭和51年からその人達と情報を交換する会合を持つようになった。この会合は、落語だけでなく講談や浪曲などを調べている人もいたので「諸芸懇話会」と命名された。既に故人となられたが、六代目柳亭燕路さんや斎藤忠市郎さんたちは、東京大学の明治新聞雑誌文庫に通って丹念に事蹟を調べており、それまでの落語の歴史的事蹟の通説を覆す新聞記事や、三遊亭圓朝の未発見の人情噺速記が明治年間の新聞に連載されていることなどを見つけて知らせてくれた。
 昭和56年から57年にかけて立風書房から発行された『名人名演落語全集』全10巻では、未発表ものを集録する方針であったので、圓朝と燕枝を載せた第一巻「明治編1」の編集を担当した私は、圓朝の速記として、「星野屋」「唐茄子屋政談」「船徳」「火中の蓮華」を収録した。
 これらは、新聞掲載であったことに編集者が気づかなかったので、春陽堂版や角川書店版の全集から漏れている。
 私が入手した「火中の蓮華」の新聞コピーは一部に破れによる欠落があり、それを補うために国会図書館で新聞原本の閲覧をお願いすると、当時既にマイクロフィルムが完成していたが、新聞原本がまだ残っていて、閲覧させて頂いた記憶がある。
 さらに、私たち落語部のOBは、集団の力を結集して『落語事典』を作成した。これはさらに保田武宏さんが熱心に増補を行って、青蛙房から『増補落語事典』として刊行されている。新作落語と長編人情噺を除き、落語の梗概と解説を記したものである。
 それを補足するものとして私は、自分の出版物である『江戸落語便利帳』(青蛙房刊)の付録に「長編人情噺・文芸噺事典」を追加した。約百五十話を収録して梗概を示した。その原典のテキストを誰でも読めるよう、原典の存在を解説に記した。今回、本全集に新規収録された噺も含まれている。その梗概を作るにあたって、二次資料からの孫引きではなく、必ず原本を読んで梗概を作ることに留意した。それというのも、圓朝研究の第一人者とされる某氏の書いた「怪談牡丹灯籠」の梗概を見ると、飯島平左衛門隣家の宮野辺源次郎のことを宮城野源次郎と書いており、このような間違いをしてはならないと考えたためである。しかし、内容があまりにも古めかしい一部のものは二次資料を利用させて頂いた。
 残念なことでは、春錦亭柳桜の「女煙草」の梗概を、国立劇場伝統芸能情報館所蔵の雑誌『花筺』だけから引用したために、連載が中断したところまでしか紹介していない。しかし、実は国会図書館に単行本完本が存在することが後で分かった。
 最後に、圓朝人情噺を普及させた全集について触れておきたい。
 大正15年に刊行を開始した春陽堂版『圓朝全集』は、明治年間に発行された単行本を底本にし、鈴木行三が校訂編纂者として書き改めている。いわゆるボール表紙本は、帝国議会開設に備えて速記術を学んだ人たちが、その技術を生かして商品化したものである。つまり、近代国語表記法確立以前の刊行物なのだ。
 『真景累ケ淵』で例を見てみよう。
 私が所有しているボール表紙本は明治21年5月29日出版、発行者井上勝五郎、筆記者小相英太郎である。冒頭の数行を見る。
「今日より怪談のお話しを申上升るが怪談話しと申すハ近来大きに廃りまして餘り寄席で致す者も御座いませんト申すものハ幽霊と云ふものハ無い全く神経病だと云ふ事に成りましたから怪談ハ開化先生方ハお嫌ひ成被事で御座い升」
と、句読点がなく、改行がない。
 これに対して、春陽堂版『圓朝全集巻の一』は、大正15年9月3日発行、校訂編纂者鈴木行三である。
「今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、餘り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云ふものは無い、全く神経病だと云ふことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌ひなさる事でございます。」
とあり、改行がない、漢字が総ルビ付きという特徴は同じであるが、句読点が入り、漢字を一部読み下して仮名に直したので読みやすくなっている。
 底本が演目ごとに速記者が異なること、商品化した出版社がそれぞれ異なることなど、編集にはさぞ頭を悩ましたであろう。
 春陽堂版『圓朝全集』を電子化して公開している青空文庫では、編纂者の鈴木行三氏が編集のために行った校訂行為について、その貢献は多々あり大きいが、法が保護する創作性を有するものには当たらないとしている。
 しかし、不完全ながらも底本を収集し、本文を読みやすく表記して全集をとりまとめた鈴木行三氏の功績に、さらなる諸芸懇話会同人の成果が加わって、圓朝の芸を残らず楽しめる現在の我々は幸せである。