19世紀の終わり頃の、パレスチナには数万人のユダヤ人がいたと考えられているが、まだ互いのまとまりといったものはなく、国土全体に分布しているといった感じだった。

 妻を亡くしたベン・イェフダーはそれからすぐに妻の家族、ヨナス一家をパレスチナに呼び寄せた。ベン・イェフダーは、14歳からヨナス家に引き取られていて、デーナブルグの高等学校にはいるまでの2年間、彼らと生活を共にしてきた。先妻デボラとはその時知り合ったのがきっかけだった。ヨナス一家を呼び寄せたのは他でもない。彼はデボラの妹、ポーラを妻に迎えるつもりだった。周囲は激しく反対した。ポーラがベン・イェフダーよりも14歳も年下だった事、激しいまでにヘブライ語に執着する彼が、ヘブライ語を全く話せない女性と結婚しようとすること、結核で余命が知れない彼が若い妻を道連れにすること、多くの反対があったが、それでも彼らは結婚した。19歳のポーラは、幼い頃見た、やせた教養ある青年についていくことを決めた。

 後に彼女は「ヘムダ」と名を変え、彼の偉業をこの後半世紀以上に渡って手伝っていくことになる。彼女はイスラエル国が建国されて間もなく、1951年にこの世を去ったが、このページの原著(「不屈のユダヤ魂」ロバート・セント・ジョン)も、彼女の回顧録によるところが多い。この本の著者は、最終原稿を彼女の存命中に見せることができたことを喜んでいた。

 彼女が22歳になろうとする頃、二人の間に最初の子供が産まれた。その女の子はデボラと名付けられた。ユダヤ教では、産まれた子供はシナゴークに行ってラビに祈りを捧げてもらい、正統派の習慣に従って名前をつけなくてはならない。ベン・イェフダーの最初の子供、ベン・ツィオンはこうした周囲の声でつけられた名前だった。エルサレムにやってきた当時は、かなりの自由思想を持っていたベン・イェフダー夫妻も、現地の生活に順応するために正統派の戒律を厳格に守るようになっていった。しかし、時たま起こるこういった事件は反対者達に彼が偽善者で異教徒であるという反論をする材料を与えてしまった。

 さらに、デボラが生まれて間もなく、彼が一時期新聞を義父ヨナスに任せたときの事、ベン・イェフダーはその新聞の編集を終え、これなら大丈夫といつも通り出版した。当時のオスマン・トルコは言論に対して厳しい検閲をもうけていた。ベン・イェフダーが新聞を書くときも、ユダヤ内部の問題だけ、それを少しでもトルコ政府と関連するようなそぶりがあれば、たとえ批判でなくてもたちまちうちに兵士が押し掛けてくる。海外の問題についても、常に言葉遣いに注意していなければならなかった。その時の新聞は、入植地で頑張るあるユダヤ人一族についての記事だった。ベン・イェフダーが見てもそこには特別おかしな箇所は見受けられなかったが、その新聞の発行の数時間後、エルサレムのアシュケナージーユダヤ人の首長ラビの署名入りで、町に張り紙がされた。この新聞はトルコに対する武装蜂起を呼びかけている、と。その証拠としてヨナスの「我々の力を結集し、前進しよう」と言う一節が挙げられていた。アシュケナージー系のユダヤ人は、正統派の戒律を重んじ、ヘブライ語を神格化していた。それでベン・イェフダーと意見が衝突することがたびたびあったのだ。

 もちろん彼はこれを気にとめなかった。ところが日曜日の朝、トルコの制服を着た警官うちに入ってきて一緒に来るように言った。彼はちょっと検閲所に出かけてくると言い、家を出ていった。妻のヘムダはその時のいつもと違う夫の様子を感じ取っていた。その後何時間経っても夫は帰ってこない。夕方になって夫の使いという人物が現れ、「客が来るかもしれないから部屋を掃除しておけ」という伝言を受け取った。それを聞いたヘムダはハタと思いたち、トルコ役人に見られてはまずい夫の資料をひとまとめにして近所の家に移した。主のいなくなったこの家は、生まれたばかりのでボラを含め、ロシア生まれの22歳の小さな母親に委ねられることになった。

 

彼の新聞は最大の危機を迎える。彼は牢獄に行くのか、彼の新聞は果たしてどうなるのか次回「シオニズムの胎動」はすぐに更新予定!

 

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