1891年の夏の終わり、妻のデボラがこの世を去った。デボラ37歳、その夫33歳のときのことである。ベン・ツィオン9歳、アビ・ハイル6歳、さらに、イェミーマー、アタラー、エミロートと言う3人の娘も生まれてヘブライ語だけを話す子供が増えていくさなかでの事で、原因は夫からもらった病気がもとだった。ロシアから実の母、そしてデボラの母も呼び寄せて看病にあたったが、夏も終わりの晩に彼女は静かに逝った。さらに打ちひしがれる間もなく、次の別れはやってきた。妻が死んだ2ヶ月後、2番目の息子アビ・ハイル、さらに同じ月に、下の2人の娘の命までも病気によって奪われてしまったのだった。デボラの母が帰った後、一時期8人いた家族は彼と息子と娘、そして年老いた母親の4人になっていた。

 その一方で、パレスチナ地域に入植したユダヤ人たちの開拓も少しずつではあるが進んでいった。そのころからトルコ政府は民族主義的な動きを見せるユダヤ人たちに警戒心を抱いていた。そして近年増加傾向にあったユダヤ人入植者を制限、そしてさらには禁止するという政策へと変わっていった。しかし、それに反して密入国するユダヤ人もあとを絶たなかった。入植者たちは産業を興し、土を耕し、子供を産んだ。信心深いアシュケナージー系のユダヤ人の中には彼らを非難する人間もいたが、何はともあれベン・イフェダーという男がパレスチナに移住して約10年、彼の思いは小さいながら次第に芽を吹き始めていた。

 もちろんすべて順調だったわけではない。入植者達と指導者達との間でのいざこざもあった。当時開拓の資金援助をしていた世界最大の銀行家、ロスチャイルド男爵はユダヤ人であったが、パレスチナへの国家建設を強く支持していたわけではない。つまり、開拓の指揮にあたっていたロスチャイルド男爵の代理人の反感を買えば、資金援助は打ち切られる可能性がある。ベン・イフェダーは両者の間で悩んだ末、ロスチャイルド男爵寄りの論陣を張った。その結果、入植者達の反感を買い、彼の運動にまで反対する人間も出てきたのだ。

 彼は民族主義者ではあったが、資金調達という点に関しては柔軟に動いた。開拓、新聞、そして辞書の編纂には多額の費用が必要であることは間違いなかったからである。

 もちろんその間にも、彼は辞書の研究を進めていた。ベン・イフェダーは言葉を自分で作り出していただけではない。多くの文献を調べてその痕跡を発掘しようとした。ヘブライ語だけでなく、同じセム語系のアラビア語やアッシリア語だけでなく、他の様々な言語を調査、研究して少しでも多くの残存物を見つけては小さな紙切れにメモしていく作業をくり返した。そうしてようやくひとつの単語の用法や意味範疇を構築するための情報を特定していった。

 

 この後、彼は生涯の伴侶となる女性と出会うことになる。しかし、政府によって彼の新聞はついに発禁処分を受け、自身も裁判にかけられる事となる。次回「再婚と苦悩」はほんとに近日更新予定。