ヘブライ語復活に命を燃やしたある男の物語:1 黎明編

 

はるか1900年以上も昔、ローマ帝国によってイスラエルの土地を追われたユダヤ民族は世界各国へと離散し、その長い年月は彼らから土地も、文化も、言葉さえも奪っていった。母語としての長い長い沈黙が訪れたのだ。この後、ヘブライ語は書物や口伝てなどによって宗教的言語として細々と生き永らえ、神聖な言語としてユダヤ教の人々に崇められるようになっていったそして時は流れて時代は19世紀半ば、この時期にロシア帝国下リトアニアのあるユダヤ人の家に生まれた男の手によってヘブライ語の運命が変わろうとしていた。その男の名はエリエゼル・パールマン、のちに16巻から成るヘブライ語辞典を編纂し、母国語としてのヘブライ語復活に生涯を費やしたエリエゼル・ベン・イェフダーであった。ヘブライ語で「ベン」は息子、「イェフダー」はユダヤ、つまりユダヤの息子と言う意味で彼が自分自身に付けた名前である。

彼は幼いころ、ヘブライ語で書かれた「ロビンソー・クルーソー」を読み、言葉としてのヘブライ語に大きな魅力を感じた。聖書を読むだけではない、日常の言葉としてヘブライ語は十分使えるのだとその時彼は感じた。高校卒業後、彼はパリの学校へと進学し、そこでヘブライ語の重要性を説き始めた。すべての民族は自らを消滅から守り、その民族性を保つ権利がある。われわれはそれを救済するため今こそその土台作りをする必要がある。この主張が彼の信条であった。しかし、パリにいてはいつまでも無想家の独り言として世間に捉えられるであろうと感じた彼は、当時トルコ帝国支配下にあったパレスチナ(エルサレム)に妻とともに赴き、ヘブライ語の教師などをしながらそこから新聞などを通して各国にメッセージを送りつづけた。

しかし、当時神聖な言葉とされていたヘブライ語を、日常に持ち込むなどは言語道断であると言う風潮は強く、彼は訴える相手であるべきユダヤ人から中傷を受ける事となった。もともと、彼はその目標のためならきわめて強情であり決して自分の意見を譲らないところがあり、その為に生前の彼はあちこちに敵をつくっていた。

しかし、その活動に共感を覚えるものたちも多くおり、次第に彼の下にはそうした人達が集まってきた。そして彼は後にエルサレムでは初めてのヘブライ語新聞を発行し、理想に向かって一歩ずつ歩みを進めていくのだった。

彼の理想たどり着くまでにはさらにこれから多くの困難を乗り越えなければならなかった。世間の風潮、投獄、そして愛する者の死と彼は戦い続けなければならなかった。

To be continued

ヘブライ語を現代によみがえらせるには、普及だけでなく、表現、単語などを補い、または省き、聖書とは違った形の言語を成立させる必要があった。後年の彼の活躍、不屈の闘志。次回、「ある男の物語:2 母語誕生編」

戻る

ユダヤ人誕生の歴史、追放について知りたい人は