イディッシュ語

イスラエルを追われ流浪を余儀なくされたユダヤ人は、宗教や学問にはヘブライ語を使ってきましたが、日常生活ではそれぞれ現地の言葉を使ってきました。そして、片言の現地語を話しているうちに、しだいにそれが母語となっていきます。しかしこのような言葉は、正式に教授されたわけではありませんし、ヘブライ語の強い影響があったりして、やはりもとの現地語とは多少違った特徴を持つようになります。このようにしてユダヤ人が現地語をもとにして新しく獲得した言語には、スペイン語をもとにしたラディノ語、ペルシャ語をもとにしたユダヤ・ペルシャ語、アラビア語をもとにしたモグラビ語などがあり、これらの中でも最も普及しているのがイディッシュ語です。

イディッシュ語は、10〜11世紀頃にライン河付近に移住したユダヤ人たちがドイツ語を話し始めたのが発端であるとされています。このユダヤ人の話すドイツ語は、多少片言ではあるにしても当時のドイツ語とあまり変わらなかったそうですが、ゲットーに隔離されドイツ語との接触が断たれることで、ドイツ語とは違った独自の発展を歩むことになります。さらに、ユダヤ人がドイツを追われ東ヨーロッパに移り、そこでチェコ語やポーランド語などのスラブ諸語の影響をも受けます。このようにして発展してきた言語がイディッシュ語です。

イディッシュ語のことを、イディッシュ語では Yiddish[イディッシュ]、英語では Yiddish[イディッシュ]、ドイツ語では Jiddisch[イディッシュ]といいます。ドイツ語の juedisch[ユーディッシュ](ユダヤの)から派生した言葉で、「ユダヤ語」を意味します。(注:juedisch の ue は実際には u ウムラオトです。)

イディッシュ語は、ドイツ語から派生したその生い立ちゆえか、ユダヤ人差別の伝統ゆえか、ごく近代まで「くずれたドイツ語」として低く見られてきました。しかし、ドイツ語に基礎を置きながらも、ヘブライ語、アラム語、スラブ諸語の影響を強く受け、それらが音韻、語彙、文法などあらゆる面で融合して、独自の発展を遂げたイディッシュ語を、1つの独立した言語であるとする見方も広まってきました。特に第2次世界大戦後はそれまでのユダヤ人差別への反省も手伝ってか、ユダヤ人以外の人々の間でも豊かな文学的遺産を誇るイディシュ語への関心が高まっています。

イディッシュ語の表記にはヘブライ文字を用いるのが正式です。セム語族のヘブライ語のための文字であるヘブライ文字でインド・ヨーロッパ語族のドイツ語から派生したイディッシュ語を表記するために、いくつかの文字の読み方を変えて使います。イスラエル建国以前は国家を持たなかったユダヤ人たちにとっては、ユダヤ教やヘブライ文字などのユダヤ固有の文化こそが自分たちの存在証明となり、イディッシュ語の表記にローマ字ではなくヘブライ文字を使うのも当然のことでした。このことはイディッシュ語以外のユダヤ諸語にも言えることで、言語は現地語からの借用であっても、その表記には必ずヘブライ文字が使われてきました。しかし実際のところ、活字の不足やパソコンのフォント環境の不整備などもあって、ローマ字に頼らざるを得ないことも少なくありません。イディッシュ語のローマ字表記はかつてはバラバラでしたが、最近ではYIVOの定めた表記法が一般化しています。YIVOとはアメリカのニューヨークにある(主にアシュケナージ系)ユダヤ文化の研究・保存・振興のための機関です。YIVOという名称はもとは Yidisher Visnshaftlekher Institut の略でしたが、ナチスを逃れて本拠地がドイツからアメリカに移ってからはYIVO Institute for Jewish Research というのが正式名称です。

ヘブライ文字による表記の例。上田和夫編「イディッシュ語読本」からの抜粋で、A.レイゼン作「祖父の時計」の冒頭部分です。右から左に読みます。参考までにローマ字転写すると「Geyn tsum zeydn iz bay Leybelen geven a yontev. Ershtns, der gang areyn: s'iz vayt, azh in ek shtot, un es tsit im, tsu alts vos iz vayt. Tsveytns, baym zeydn iz shtub (aleyn.)」となります。意味は「おじいさんのところへ行くことはレイベレにとって楽しみでした。第一に道のり自体が楽しく、それは遠く町のいちばんはずれにあり、そして遠くにあるものは全て彼を tsit する(?)。第二におじいさんのところは家そのものでした。」です。私の怪しげな訳では心もとないので、上述「イディッシュ語読本」に載っている上田先生の訳も紹介しておきます。「祖父の家へ行くことはレイベレにとって楽しみのひとつであった。まず第一に、道のりそのものが楽しい。つまり町はずれにあるのだ。そして遠いものは何でも彼を引きつける。第二に祖父の家では一人きりになれるからだ。」(誤字脱字があれば私の責任です。なんだか私の訳とはちょっと違いますね。ここで図らずも私のイディッシュ語力の低さを露呈してしまった感じです。イディッシュ語に関しては下手の横好きといったところです。)

このホームページではヘブライ文字を扱うことはできませんので、イディッシュ語はローマ字で表記します。

ナチスによるユダヤ人虐殺は知らない人もいないでしょうし、これからも決して忘れてはいけない歴史です。もちろんこれからは未来に向かって歴史の失敗を乗り越えて互いに理解し合うのが理想ですが、あのようなことがあってユダヤ人のドイツ人に対する感情が良いはずはありません。このことはローマ字綴りの決定にもはっきりと現われています。例えば[シュ]という音は普通ドイツ語では sch と綴られます。しかし、YIVO式ローマ字表記では英語風の sh という綴りを採用しています。口蓋摩擦音には ch ではなく kh を採用しています。その他、ts、z、y など、綴りはことごとく英語式になっていて、ドイツ語式の綴りは徹底的に排除されています。ただし[チュ]と[ジュ]は英語の ch / j とは違って tsh / dzh となります。これは ch と j がドイツ語を思い起こさせるからでしょうか。もちろんこれは私の考え過ぎかも知れません。単にYIVOがアメリカにあるので英語風になっただけかも知れませんし、sch よりも sh の方が経済的であるなど論理的に考えた結果なのかも知れません。


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